地獄の回想録

2006年からやっているブログの記事を機械的に貼り付けました。

2007/11/05 19:45

『雨天決行』

 

毎度断りを入れるようでなんですがこれはギャグです。

 

坂本雅は刑事をしていた。捜査一課に配属されて数年になるが、未だに捜査の後は
食べ物が喉を通らなかった。
後輩の逸馬は、最近結婚して毎日手作りの弁当を持ってきて美味そうに食べる。
雅は逸馬ののろけ話を聞いていると、自分も新婚の頃はこんな風だったのだろうか、と
気恥ずかしくなるのだった。
今はごたごたがあり離婚。仕事の為すれ違いが多く、雅から話を出した。


その電話の内容を聞いて、逸馬は息を飲んだ。
「雅さん、大丈夫ですか?」
相当グロテスクなのか、と雅はうんざりしてぼやく。
「嫌だなあ」
逸馬は口を開いて何かを言い掛け、やめた。

朝の6時半、月極駐車場で事件は起きた。長身の男が、頭を固い鈍器のようなもので
撲殺されていた。がっしりとした体駆で、スーツを着ている。
財布などは盗まれておらず、免許証から男はこの辺りに住む小田という会社員で
あることが判明した。目の前に彼の住むアパートがあったが、駐車場に彼の車は
なかった。
検死に当たった雅は、まだ死後硬直状態にある遺体を見てほっとした。少なくとも
腐ってはいない。鑑識によると、死後1時間弱という所だ。
前回、死体がちょうどいい具合に腐っていた為に軽いトラウマとなっているのだった。
遺体は苦痛に満ちた表情をしている。雅はつい顔を背けた。

頭蓋骨が砕かれていた。額はハンコでも捺したみたいに四角く陥没している。
朱肉はないが、血で周囲が丸く黒ずんでいる。殺害後から先程まで雨が降っていたので、
血の部分は地面が乾いたらはっきり見えるだろう。その所為で、顔の血は
多少洗い流されている。
身長からいって犯人は男だろうな、と考えた。

「遺体は死後硬直してから、腕を掴まれて30センチ程引きずられていますね」
若い鑑識の男が言った。確かに、革靴の踵が土を掻いている。
「運ぼうとしたのか」
「恐らくは」
被害者の車は失くなっている。犯人がその車で逃げるついでに遺体を棄てることを
考えていたのかもしれない。しかし、被害者が何処かに置いてきたとも考えられる。
今の所、車の足取りは掴めていなかった。

「こう言っちゃあれですけど‥‥正面から殴ったんなら、顔見知りですか?」
童顔で笑顔の逸馬が、手を振り下ろして人を殴る仕草をした。死体を前にしても
普段と変わらない様子だが、歯切れのよさがなかった。
「通り魔が背後から人を襲う保証はないよ」
傷跡の形状から考えて、凶器がそう大きいものとは思えない。金づちくらいなら
隠して近付けばいい。

 

「ですか」
新米刑事の逸馬正太郎はブルーシートが被せられた遺体から顔を上げた。先輩の
雅は相変わらず顔を青くしている。それでも随分と冷静だな、と不思議に思った。

まだパジャマの野次馬が多いのを見て、逸馬は今日が日曜日だということを思い出した。
スーツ姿の被害者に違和感を覚えていた原因がわかった。
不意に自分より少し年上くらいの女と目が合う。化粧をしっかりと乗せて、流行りの
可愛らしい服装に身を包んでいた。女は自然に視線を逸らし、制服警官と何か話している。
その内、髪をなびかせて消えた。

「‥‥何か引っ掛かるんだよなあ」
雅が呟く。考え事をする時に頭を抱えるのは、雅の癖だ。逸馬は電波でも
受信しているのだと思っている。
「彼について何か?」
「いや、はっきりとは‥‥死体については鑑識の結果が出てからかな」
既に捜査一課の数名は、周辺の聞き込みをしていた。雅は少し考えてから、被害者の
交友関係について当たってみることにした。ひとり暮しなので、実家とは殆ど繋がりも
なかろうと踏んだ。

逸馬は首を傾げた。雅は潔い人なのかな、とただ思った。

 

雅と逸馬は、まず被害者の会社へ向かった。食品生産会社で、週休は二日だが社員毎に
ばらばらに割り当てられている。小田は日曜は出勤日だった。

まず受付で話を通すと、主任の伊林と名乗る中年男性が現れた。警察という身分を名乗ると、
作り笑いを覗かせた。
「何でしょう」
「こちらの小田さん、まだ出勤していられませんよね」
雅が尋ねると、伊林は禿げた頭をぶんぶんと縦に振った。
「そうなんですよ。電話にも出ないし」
「今朝殺されたんですよ」
「ええっ」
伊林は驚いたが、どうも現実感を感じなかった。殺人なんて身近にあるものではない。
悲しいとも思わなかった。
「小田さんについてのお話をお聞きしたいのですが」
口をきつく結んでから、伊林は言った。
「‥‥なら私よりも、南に聞いた方がいいでしょう。小田と仲がよかったんです。いいですかね」
雅が頷くと、伊林は大声で南の名前を呼んだ。すると、不健康な痩せ方をした男が
頼りない足取りで近付いてきた。

「こちら、警察の方」
伊林がそう紹介すると、南は顔を引きつらせた。
「け、警察の」
逸馬だけが警察手帳を出し、雅は辞儀をした。
「ははあ」
南はつい、感嘆の声を上げた。刑事ドラマ好きの母に自慢しよう、などと考えて
いた。
「私は‥‥その」
伊林は言いにくそうにふたりの顔を見上げた。
「お仕事に戻って下さって結構です。有難うございました」
雅の言葉に、伊林は結局最後まで作り笑いのままだった。部下の指導に当たっている。

 

「南さんだね?」
その姿を見届けた逸馬が聞いた。
「あ、はい」
「小田さんと仲がよかったとか」
「ええ、まあ」
南は曖昧な返事をした。はっきりと仲がよかったと言えるかわからなかった。
たまに飲むくらいだったし、それは同期であったからという理由だった。
「小田さん‥‥今朝方、誰かに殺されていたんだ」
逸馬は多少声をひそめた。死者の友人に対する配慮のつもりだったが、南は逆に
軽率に感じた。やはり南も、急な展開に感情が着いていかないのか呆然と聞き返した。
「殺された?小田が‥‥ですか?」
一昨日も小田は何も変わらない様子だった。南ははきはきとした性格の小田に
着いていくことが常だったから、憧れのようなものもあったし、疎ましく思うこともあった。
そう考えるとそれなりに友人をしていたんだなあ、と南は思った。

 

「残念だけど」
逸馬はそう言ってから、頭を下げた。雅は周囲を観察していたので、一拍遅れて
逸馬に倣った。南自身に特に関心は寄せていない。
一通り話を終えたらしい伊林に近付くと、伊林は厳しい顔をまた無理に曲げて笑った。
「どうされました?」
「小田さんの机はどれでしょう」
伊林は、ふたつ続けて空いたデスクの奥を示した。
不思議な感情が、形になる前になくなった。

 

雅が消え、南は黙り込んでしまったので、嫌な雰囲気だった。
「‥‥小田さんのこと質問させてもらっていいかな」
訴えるような南の視線に、こっちも言いにくいんだ、と文句を言いたくもなった。
返事がないので、逸馬は勝手に聞くことにした。
「小田さんの性格はどんな感じだった?」
南は少し悩んでから、
「明るくて‥‥さっぱりとしていました。周りの評判も悪くは‥‥ないと思います。
 仕事にも真面目でしたから」
と、歯切れの悪い口調で答えた。メモを録りながら、やはり通り魔だったのかな、と
逸馬は思った。

「女性関係とかはわかる?」
「いや‥‥今はよくわかりませんが、昔は」
南は振り向いて、雅が居る辺りを指した。
「あそこの‥‥ああ、休みだ」
「あの人が調べてる机?」
「の、隣です。私たちのひとつ下の、香西知沙美さん‥‥何ヶ月か前までは
 付き合ってたんですけど、別れたみたいです」
逸馬は、漢字を教えてもらいながら雑な字で香西の名前を書いた。
「どうして別れたのかな」
特に何も考えずにそう聞いた。破局なんて誰でもある話で、新婚の逸馬はその誰にでも
同情出来る余裕がある。
「‥‥小田が振ったんです。小田はばついちなんですけど、前の奥さん‥‥と、
 再婚したいらしくて」
「‥‥そっか。残念だったね」
逸馬は雅を見た。雅は机を捜索しているようで、声は届いていなかった。

「で、香西さんとはその後どうなんだ?」
「小田と香西さんは、デスクが隣同士なんです。顔を合わせなきゃならない‥‥
 だからいつも、普通に会話してました」
それはきついだろう、と逸馬は苦笑した。学生時代に同じ境遇に立ったことのある彼だったが、
結局卒業まで業務連絡のようなことしか話せなかった。
「香西さんは明日来るかな」
「来ます。あ、いや」
南は、断言しておいて急に言葉を濁した。
「来るの?」
「一昨日体を崩して早退したんです。今日で回復してれば‥‥来ます」
「そっか‥‥じゃあ小田さんを恨んでそうな人、知らないかな」
最初から女性問題を睨んでいたわけではなく、恨みを買いそうな人間を聞いていたのだ。
親切な友人のことを恨んでいそうな人を知っている確率に賭けるより、前例を見て
恋人との関係を聞く方が確実に思えたのだった。
「いや‥‥そういう性格じゃないから」
案の定、南は首を横に振った。
「成程ね」
逸馬は、手帳にクエスチョンマークだけを書いて閉じた。特に意味はなかった。
「有難う。突然のことで辛いのに」
「いえ。大した情報もなくてすみません」
南のぼんやりとした瞳は、悲しみを写していなかった。
逸馬は、まだ現実感が湧いていないのかと思った。

 

カーテレビは小田殺害の報道を映していた。未だ速報という形で、ただ小田某という
アンノーンが殺されていた、ということだけアナウンサーは伝えた。
道矢尋子は、悔しい想いをした。既に交流はないとはいえ、見知った人間が殺されたのだ。

暫く走らせた所で車を停めた。人がひとり勝手に乗り込んで、溜め息をついた。
「逸馬君はどうしたの?」
雅は、同僚の刑事に向かって笑った。
その反応に道矢は面食らい、疑うような目でバックミラーの姿を見つめた。
「まだ若いから。走らせた」
「やな上司」
アクセルを踏み込むと、ハイヒールがかつんと音を鳴らした。
走らせたといっても、車で走らせているということだ。小田の元恋人である香西の元に
聞き込みに行かせたのだ。
逸馬は運転が下手でハンドルを握らせるのは心許ないのだが、雅は雅でやることがあった。
被害者、小田の死体に不自然な点があったのだ。
「全く。あたしはあんたの足じゃないんだから」
「こう寒いとタクシーがよく売れるから拾えないの」
そう言う顔の横を空のタクシーが走っていったことを、雅は知らない。

「砂だって」
道矢が言う。
「砂?」
「致命傷から砂が検出されたんだって。細かい、駐車場の砂」
雅は首を傾げた。バックミラーでその仕草を確認すると、道矢は少し泣きたくなった。
「風でも吹いたんだよ」
「風なんかじゃ入り込まない所まで。つまり、凶器に砂が付いてたってこと」
「ふうん」
素っ気ない返答であったのは、雅が考え事をしているからである。それは現場を
見た時に感じた違和感についてあった。

「あのさ、あんた」
「道矢」
道矢は、余りにも不自然な態度についてを尋ねようとしたのだった。
仕方なく溜め息をつく。
「何」
「現場に行ってほしい」
車は急に右に傾いた。道矢が道路上でUターンさせたのだった。
「やめろよ!」
そういえば目の前の女は、カーチェイスで事故を起こして生死の境をさ迷ったことが
あるのだった。
雅の身を乗り出しての抗議も聞かずに、道矢は思い切りアクセルを踏み込んだ。
雅は後部座席に叩き付けられた。
「何なんだ」
道矢の目には、1台のミニカーしか写っていなかった。
「道矢、現場は」

「被害者の車、失くなってたの知ってるでしょ?あれ‥‥見てご覧」
雅はヘッドレストにしがみついて前のめりになっている。前の前に走っているの
は確かに資料と同じミニカーだったが、前に走っている車がボックスカーの為、
切れ端のような部分しか確認出来なかった。
「別のオーナーかもしれない」
「そりゃそうだ」
オーナーは死んでるんだから、という言葉を飲み込む。

道矢はパトライトを付けてサイレンを鳴らした。雅が何か言っているような気がしたが、
けたたましいサイレンの音に掻き消えていた。
「そこのミニ、停まりなさい」
拡声器を使って呼び掛けると、前を走るボックスカーが道を曲がった。すかさず
ミニカーの後ろに付ける。
「大丈夫か車間距離」
雅の目には、既にぶつかっているように見えた。
「停まりなさい」
「今停まったらぶつかるって」
「そっか」
やっと話を聞いた道矢は、ゆっくりとアクセルから足の力を抜いていく。
それを見計らったように、ミニカーは速度を上げたまま狭い路地に曲がった。

「あがっ」
中に振り出される雅。逸馬にこっちを頼むべきだった、と確かに後悔した。
ビルとビルの隙間を、片や縫うように、片や破壊するように進んでいく。
雅が何とか身体を起こして窓の外を見ると、進んでいるのが不思議なくらいの道幅だった。
半ば感心して呟いた。
「凄い」
勿論道矢の耳にはサイレンと風を切る音しか聞こえていない。
数十メートル先に見えるミニカーが、ぐんぐんと迫っている。
「接近してもこんな狭い道じゃ」
ハンドルを固定することに全神経を費やしていた道矢は、視界の端で運転席が開いて人が
飛び出すのを見た。女だった。
「あ、下りた!」
車は、放置されたままで。
雅が、汗を流して叫ぶ。
「ブレーキ!」
道矢は、苦笑いで返した。
「掛けてるわい!!」
道矢の愛車は、吸い込まれるようにミニカーに近付いていく。
激しいブレーキ音とサイレンの中で、道矢は意識が飛ぶのを感じた。

香西知沙美の住所は、マンションの3階になっていた。逸馬が確認しながら
インターフォンを押す。しかし、いつまで経っても応答がなかった。
車があったから、恋人とデートでもしているのだろうか。逸馬は諦めて振り向いた。
「あら」
そこには、髪をひとつにまとめラフな服装した女が居た。齢にして30代前半だろうか。
しっかり過ぎる程化粧が乗っているので、はっきりとはわからなかった。
雅ならわかるのだろうな、と思った。

香西が不在かどうか聞こうとして、やめた。知っている筈がない。
「すみません」
逸馬が避けると、女は訝しげな目をして逸馬を睨んできた。当然といえば当然か―と思うと、
女は香西の部屋の鍵を開け始めた。逸馬は驚いて女の肩を掴んだ。
「香西知沙美さん‥‥ですか?」
「はあ」
女は睨みながらも、頷く。
逸馬はポケットから警察手帳を取り出して見せた。これをやるのが好きだった。
「警視庁捜査一課の逸馬です」
香西は多少なりと驚いたようで、鍵を引き抜いて逸馬の方に向き直った。
「警察の方が‥‥何の用ですか?」
上目使いで、警戒するような視線を向けてくる。逸馬は出来るだけ柔らかく笑った。

「小田さんが殺されたこと‥‥ご存知ですよね」
香西は悲しげに眉をひそめて、少し俯いた。
「あ、すみません。デリカシーがなさ過ぎました」
「いえ、いいんです。もう終わった関係でもありますし‥‥でもやっぱり、悲しくて」
香西の目から、細い涙が零れた。妻のそれと重なって、息をつく。
「お気持ちはお察しします。しかし、小田さんを殺した犯人を突き止めるのに
 ご協力頂きたいのです」
「‥‥幸雄君を殺した」
香西は小さな声でオウム返しをした。あの人も昔、幸雄と呼んでいたな、と思った。

逸馬が警察官になったのに、何ら理由はなかった。
考えれば考える程「違う」ような気がした。いつから目指し始めたのかと聞かれれば、
高校時代の中のいつかだったが、きっかけがわからない。
だから別に、市民を守ろうとかいう意気や正義感はない。それでもこういう反応をされると、
同情せざるを得なかった。

「‥‥わかりました。私にわかることなら、何でもお答えします」
「すみません」
逸馬は手帳を取り出して広げた。先程のクエスチョンマークの下にペンを置く。
「小田さんという人物について、あなたが知っていることを教えて下さい」
香西は薄い口唇を軽く噛んで俯いた。後れ毛がふわりと揺れた。
「彼は‥‥いい人でした。優しくて誠実で、楽しい」
香西は言葉の節々で顔を上げて、確認するように逸馬の顔を見た。
「非の打ち所なしですか」
南が言った話と大して変わりなく、逸馬はまたクエスチョンマークを書いた。
何か書いたように思ってもらう為―参考になった、と相手に思わせる為だった。
香西は、また俯いて小さく頷いた。
「本当に‥‥別れた後でも、自然に接してくれて‥‥すみません」
また泣き出してしまったので、逸馬はどうしようもなく慰めの言葉を掛けた。
香西は袖で涙を拭う。

「早めに終わらせちゃいましょう。次にですが、小田さんを恨んでいる‥‥逆恨みでも
 何でもいいんですが、そういう人に心当たりは?」
香西はまた黙り込んだ。急かすことはしなかった。
「居る‥‥なんて私が言っても、いいんでしょうか」
予想外の解答に、逸馬は驚いて身を乗り出した。
「いいんです。気になる人が居るなら、何でも」
香西は躊躇いがちに口を開いた。
「‥‥南哲郎さん。私や幸雄君の同僚です」
知った名前が出るとは思わなかった。手帳に書いた南の名前を探したくらいだった。
「南さんね」
「ご存知ですか?」
「ええ。会社を訪ねた時に‥‥彼からあなたの名前を聞きまして、僕は今ここに居るわけです」
ボールペンで安物のスーツの襟をつついた。

香西はまた口唇を噛み締め、顔を上げたと思うと息を深く吸い上げた。
今にも怒鳴り出しそうな表情に圧倒され、逸馬は広くない通路で後ずさりした。
「つまり南さんは、私が犯人かもしれないと言ったんですか。刑事さん」
「い、いえ。僕が南さんに小田さんの女性関係について聞いたら、彼が元カノだ
ってあなたの名前を‥‥だから僕は今ここに居るんでして」
気弱な笑みを浮かべ、焦って弁解する。香西は眉間にしわを寄せた。
「あの人‥‥私が幸雄君を選んだからって、私を犯人に仕立て上げようとしてるんですよ」

香西の話はこうだった。
小田と南は友人ながら、お互いに香西の事を想っていた。香西は香西で嬉しいが、
怖かったと言う。板挟みという状況に立たされた人間の気持ちを、逸馬はわからなかった。
結局南から告白されたものの、香西は小田を選んだ―というわけだった。
ドラマならベタな話だな、と逸馬は思った。
「殺す程小田さんを恨んでたんですか?」
「そこまではわかりません。私は南さんじゃありませんから‥‥でも、殺人って
 きっかけでしょう?」
香西の言うことももっともだった。
「しかし‥‥あなたに罪をなすりつけていると断言するからには、あなたにもそれなりの
 確証があるんじゃないですか?南さんが、小田さんを殺したという」
逸馬の何気ない質問に、香西は酷く狼狽した。逸馬は手帳にクエスチョンマークを書く。
その様子を見て、香西は更に慌てた。

「確証はありませんが、私が犯人であるわけがありません。恨んでいるとしたら、
 南さんしか思い浮かばない‥‥ただそれだけのことです」
「‥‥そうですか」
逸馬は頷いて小さく笑った。何の悪意のない笑みでも、香西は顔を白くした。
「所で」
「まだ何か?」
「すみません。肝心な所でして。今朝方‥‥つまり小田さんが殺された時間、あなたは
 何処に居ましたか?」
香西は一息置いて言う。
「私が犯人だって疑ってるんですね」
逸馬は何も言わずに、また悪意なく笑う。香西は引きつった笑みを浮かべた。
「‥‥会社が休みなので寝ていました。証明出来る人は居ません」
付け加えた言葉は自嘲気味だった。普通の休日を過ごしていれば、確かに寝ていても
おかしくない時間だ。パジャマの野次馬も多く居た。

しかし、逸馬は首を傾げる。そして言った。
「すみません。何時に起きられました?」
香西は溜め息をつく。
「‥‥7時頃だったと思います」
「じゃあまだまだ朝ですねえ」
ボールペンの尻でこめかみを掻いた。香西は意味がわからず、眉間にしわを寄せる。
罠を仕掛けたつもりはない。逸馬は頭が回るわけではない。ただ、矛盾を指摘していくだけで
香西は追い詰められていく。
「は?」
「僕は小田さんが殺された時間を明言してません。今朝方、って言いましたよね?僕」
逸馬は本気で聞いたつもりだったが、香西は返事をしなかった。茶化されていると思った。
「それが何だって言うんです」
香西の口調は、徐々に激しいものになっている。

「小田さんが殺されたのは朝の5時半頃だとされています。一口に朝って言っても、
 数時間はある‥‥例えばの話ですけど、香西さんが起きた7時でも、まだ朝って言って
 通じるのは少なくとも3時間はあります。で、例えば。例えばですよ?8時に小田さんが
 殺されたとします。朝は寝てた、とあなたが証言しても7時には目が覚めてるんですから、
 僕のした質問の解答にはなりません。よね?」
逸馬は、大袈裟な振りと抑揚を付けて考えながら話した。
少し落ち着いたらしく、香西は強く頷く。
「そうですね」
「なら、どうして犯行時刻が早朝だと知らないあなたが、事件発生時は寝ていたと
 証言したんです?」
楽しかった。犯人を追い詰めていく楽しさではなく、間違いを明かしていく快感。

逸馬は、やはり笑って聞いた。
「僕の質問に対する解答じゃ、ありませんでしたよね?」

ぼんやりと覚醒した雅は、苦笑しながら溜め息をついた。
「道矢の奴め」
「何よ」
予想外の声に驚く。ベッドの直ぐ横に、道矢が座っていた。
事故の後、突然前のミニカーから出火。雅は意識を失った道矢を引きずるように
担いで逃げたのだった。

「礼ぐらい言わないのか?」
雅は上半身を持ち上げた。既に身体は回復していた。
「何でよ」
道矢は新聞をめくりながら、気のない返事をする。
「何でって‥‥いいけどさ」
本気で言ったつもりではなかった。とにかく無事でよかった、と笑う。
「何でお前はぴんぴんしてるんだ」
「衝突らしい衝突はしてないから。あんたは寝てたから知らないだろうけど、車は
何も激突したわけじゃないの」
雅は顔をしかめた。
道矢を救出したのち、雅は身体の痛みに襲われたのだった。全身を打ち付けた所為だ。
「じゃあどうしたら燃えるのさ?」
「ミニカーからマッチが見付かりました。以上」
「マッチ?」
ならば、あの時逃げた女は元から車を燃やすつもりだったのだろうか。死者の車を
運転し、燃やす意味は何だろう。

寝起きの頭では、答えは影すら見えなかった。頭が痛かった。
「あの女は?」
「逃げた。周りに警察が居るわけでもないし、逃げちゃったよん」
道矢の投げやりな態度にこもっているのは、悔しさだろうと雅は思った。
目の前で怪しい人間を取り逃がした。おまけに同僚を怪我させ、愛車をへこましたからである。
「‥‥何か、新しい情報は」
事件が気掛かりで仕方がない。思い立って現場に行こうとしたのだが、結局辿り着いたのは
病院だった。
道矢は鞄から、いくつかの写真を取り出した。
「現場写真。行きたがってたでしょ」
雅は驚いた。まさか、道矢があの状況で自分の言葉を聞いていたとは思えなかった。

「有難う」
雨は乾いていた。死体のロープの周りから、円形に血の跡が広がっていた。
「変だな」
殴り殺されたのなら、もっと血が飛んでいてもいい筈だ。だというのに、血溜まりの脇に
小さく撥ねているだけだ。
「変だね」
道矢が適当に相槌を打つ。

駐車場に座り込みながら、命乞いをする小田。凶器を振り上げ、頭に落とす。
血が湧き出る。落ちる。広がる。
凶器に砂が付いていた。金属なら古くて傷が付いているだろう。落としたと考えるのが
妥当か、地面に付かざるを得ないと考えるのが妥当か。
そしてイメージ上の姿勢から振り下ろすと、あのような傷になる凶器。
道矢は、組んだ脚を組み替えた。ハイヒールが床を引っ掻く。雅は身を乗り出し、頭を抱えた。
砂に付かざるを得ない凶器。

「‥‥ヒールだ」
そう呟くと、道矢はぱちぱちと手を叩いた。
「そ」
雅は、眉を寄せる。
「そ、って」
さすがに反応に納得がいかず、不満げに言う。道矢は、意地悪そうに微笑んだ。
「だって、逸馬君が犯人捕まえちゃったし」
「は?」
すっかりと逸馬の存在を忘れていた。自分で行かせておいて、無情だと思った。
「もう来るんじゃない?」

道矢が振り返ると、病室の扉が開いた。
「すみません‥‥おはようございます、雅さん」
外から聞いていたことを、逸馬の言葉が物語っている。雅は息をついて笑った。
「何だ‥‥早く言ってよ」
不甲斐ないが、雅は後輩の顔を見て安堵した。現実に帰ってきた気がした。
逸馬はとろとろと雅に近付き、道矢に挨拶した。
「大丈夫ですか?事故ったなんて」
「こいつの運転する車にはもう乗らない」
「折角迎えに来てやったのに。やな奴」
3人は笑った。

「話してやんな。こいつノーヒントで凶器まで当てたんだもん」
道矢がひらひらと手を振ると、逸馬は笑いながら手帳を取り出した。
「凄いですよ」
「いや、犯人を捕まえたなら君のが凄いよ」
逸馬は情けなく笑った。雅は、逸馬の感情は読み取りにくいと思っている。
今も喜んでいるのか恐縮しているのかわからなかった。
ただ、こいつが無事でよかったと思った。
「犯人は誰だったのよ?」
「香西知沙美です」
数秒経って、小田の元恋人であることを思い出した。
「雅さんが狙った通りですよ。早く指示してくれてよかったです。逃げられたら堪んないから」

そうか、私が指示したのか。
記憶が曖昧で、不鮮明だった。雅はただ笑った。
「凶器は、さっき雅さんが当てたハイヒールです。香西は小田さんと依りを戻そうと
 迫ったんですが断られ、かっとなった揚げ句に突き飛ばし」
逸馬は、言いにくそうに口を閉ざした。
「踏み殺した、というわけか」
何となく、おぞましい光景だった。

 

逸馬は頷く。
「香西は南に罪を着せようとしました。南は彼女に惚れていたようですね」
あの会社で見た南は、香西のことを考えていたのかもしれない。香西が小田を殺し、
自分に濡れ衣を着せることなんて知らずに。
「女って怖いなあ」
雅が言う。道矢は頭を小突いた。
パジャマの群集に紛れた女。あれが香西であった。
「僕が訪ねた時、既に化粧ばっちりだったんです。そりゃあ告白するんだから化粧するのは
 当たり前ですよね」
果たして、目の前の女がそうであったのかはわからない。
早朝に出勤する時間を狙ったのは、確実にひとりで居る小田に会えるからだった。

しかし、その日だけは違っていた。

「‥‥雅さん」
納得したように頷く、雅の名前を呼んだ。
「何?」
「罪の意識なんて持たなくてもいいんですよ」
雅は、きょとんとして首を傾げる。逸馬は、その仕種の意味を理解しなかった。
「何だって?」
「雅」
道矢が旧友に向け、はっきりとした声で言う。
「事件の前夜、何処かに行った?」

 

坂本雅は、自分の手が震えていることに気付いた。手の甲には、道矢を助けた時に
付けた切り傷が残っている。
「前夜?いや‥‥何で」
まさか事件との関連性を疑われているのだろうか。いや、犯人は捕まったのだ。
大体、小田なんて男は知らない。
動揺していると、逸馬がぼそりと口を開いた。
「‥‥香西は、事件の前夜にも小田さんのアパートを訪れていたんです。しかし、誰か、
 女が来ていることに気付いた」
逸馬の説明が、まるで異国の言葉のように響いた。香西という人物を知らないからだろう。
「話自体は聞こえなかったそうですが、大層親しそうにしていた。だから、香西は
 思ったわけです。私が振られたのはあの女の所為であり、私を受け入れてくれないのは
 あの女が居るからだ、と」

雅は、ぼんやりとした目で逸馬を見た。やはり感情は読めない。弁士の講談でも
見ているような気分がした。
「実際、小田さんはその女に好意を持っていた。それは南君の証言で、裏は取れて
 いませんが、小田さんの部屋を探れば何らかは出てくる筈です」
自らの言葉に酔うかのように、逸馬は薄く笑った。
「香西はその日、すごすご帰らざるを得ませんでした。そして翌日の朝、出勤を
 する小田さんに振った話題‥‥あの女は誰だったのか。私じゃ駄目なのか」
「それが?」
自らの声さえも震えていて、雅は恐怖を覚えた。
話を遮られても、逸馬は先程と一寸も違わぬ喋り方で続ける。

「小田さんは言った。あの人は離婚した嫁だが、やっぱり俺はあいつが好きだ。
だから無理」
そこで言葉を切ると、逸馬は苦笑いのように見える表情で雅を見下ろした。
「で、殺す」
そう言ってから、道矢は立ち上がる。
「その事実を知った責任感の強い小田君の想い人は、どう思ったんだろうね?」

「最近、別れた職場の子が付きまとってくるんだ」
スウェットに身を包んだ男は、私の顔を見るなりにっこりと笑った。
「だから何?」
「いや、その子かと思って用心しちゃった。まあ入れ」
当たり前のように、別れた妻を自分のアパートに通す。こいつの性格上、部屋は
汚れていなかった。寒くて狭く、乾燥した臭いがする。
「嫌な男だなあ」
私はぼやく。
「こっちにはもう気がないんだ。いい顔してた方が嫌だろう」
「それは私たちにも当て嵌まる言葉かね?」
男は、答える代わりに笑った。
わかっていた。何故急に私が呼ばれたのか。長年付き合ってきたのだから、それくらいは
見ればわかった。

「車だっけ」
缶ビールを2本、机に置く。
「うん」
「明日は?」
「仕事」
男は少し黙ったのち、缶ビールを下げた。
「飲めばいいのに」
「ひとりで飲んでも面白くないよ」
明日は日曜日だが、私も男も仕事だった。別れてから数年経つのに、いつまでも
私たちは幼馴染みの延長線上に居た。
それがいいのか悪いのか、私にはわからない。
私たちが夫婦の時間と呼んだのは、今のような少しの時間だ。それでも癒されて、
笑い合って、すれ違っていった。
―いや。すれ違っていたというのは、私の加害妄想だったのかもしれない。
私は穏やかに笑う聖人のような男の顔を見ながら、そんなことを思った。

「で?そのストーキング女はどんな人だったよ」
彼は、きちんと私を忘れて先に進もうとしてくれた。
「いい子だったよ。ちょっとしつこいけど」
私は素直な気持ちで呆れ笑いをした。
「君は誰か、いい人は居るのかい」
「居たらこんなとこ来ないだろ」
「そうだな」
私は相変わらず、この男を忘れられていない。人に話せば男のようだとも言われ、意外と
女らしいとも言われた。

少しの沈黙が入って、男は言った。
「俺たちって、一緒に居ちゃいけないのかな」
言いたいことはわかっていたのに、その言い回しに胸が熱くなった。
「何それ」
「だから‥‥もう1回、やり直せないかなって」
やっと効いてきたストーブが、唸りながら部屋を暖めていく。私は病気のような
深呼吸をした。
「いや、返事は待つよ。俺は振られた身だし」
私はベランダの付けられた窓を見上げた。

「馬鹿だねえ」
「馬鹿だよ」
空には冬らしく綺麗な星が輝いている。
「最近、結婚した部下がのろけてきてうるさいんだよな」
私の言葉に、男は顔中で笑った。
全ては、温かい未来を暗示していた。

 

唐突に流れ込んだ映像に、雅は混乱した。
男は、確かに「小田幸雄の顔」をしていた。
「道矢‥‥何が言いたいんだ」
道矢は悲壮な顔をして答えた。
「思い出してよ、小田君のこと」
雅は驚いたように目を見開いた。逸馬が柔らかな物腰で呼ぶ。
「雅さん」
その声に縋るかのように、逸馬の方を振り向く。逸馬は終始変わらぬ薄い笑顔だ。
雅は安堵の為か笑った。
「逸馬」
「‥‥僕は」
背中にじっとりした汗を感じる。張り付いたパジャマが、やたらに重い。
逸馬は、決心したように閉じ掛けた口を開いた。
「僕は、ずっと雅さんは、辛いのを隠してるんだと思っていました。僕はかなり
 鈍いですけど、雅さんが心の何処かで小田さんを思っているのはわかってましたから」
「私‥‥わからない」
顔を歪めて、雅は泣きそうな顔をした。そんな顔は、離婚した翌日でさえ見せなかった。

 

香西の自供は、雅への恨み言が大半を占めていた。
香西は犯行後、小田の携帯電話を使って雅に電話を掛けていた。
刑事だとは思わなかったが、知っていても掛けただろうと香西は言った。
電話に出た雅は眠たそうな声をしていた。

香西は雅に向け
『あなたが幸雄君を誑かすから』
と言った。勿論雅は何のことだかわからず、聞き返した。

『あなたが居る限り、いつまでも幸雄君は私に振り向いてくれない』

『あなたが居る所為で、幸雄君は私から離れた』

『見たんだよね』

『昨日、幸雄君のうち行ったとこ』

『それがって‥‥それで苛っとしたの。わかるでしょう』

『私?誰でもいいじゃない。あなたの知らない人』

『何それ』

『ふうん。まあいいよ、何だって。幸雄君はもう、永遠に私のものだから』

逸馬はそれを聞いて、遺体に引きずられた跡があったことを思い出した。
香西は、小田を手に入れようとしたのだ。
しかし死後硬直した死体はそう簡単に扱えるものではない。しょうがなく、香西は
逃げたのだった。

「小田さんの車は、逃げようとした香西が使ったんです。初めから殺す気は
 ありませんでしたから、逃げる準備はしてなかったんですね」
逸馬は能弁に喋る。
「しかし、現場の様子が気になる。何か落としてきてたりしないか‥‥香西に話し掛けられた
 警官が居ました。随分な騒ぎだが何かあったのか、と聞いて帰ったそうです。朝早く、
 もうあんなに人が集まっているとは思わなかったんでしょうね。殺した時の
 服装のままだなんて、かなり無謀ですけど」
まるで自分に義務付けられた言葉だというように、台本を読むかのように流暢に。
「そのままマンションに帰ろうと車を発進させましたが、さすがに血の付いた靴を部屋に
 持ち込む気にならなかった。だから古着屋で、服を一式調達しました。
 靴だけ変えても服装に合いませんからね、難儀なことで」
笑う。狂気すら感じさせる、純粋な笑み。

逸馬は大きな目を道矢に向けた。道矢は、雅の背中をさすっている。その雅は、
青い顔をして自分を見つめていた。
―雅は苦しんでいるのだろうか。
僕は悪者なのだろうか。そんなわけがない。悪いのは僕じゃない。勿論雅さんでもない。
それでも苦しむのは僕たちだ。僕たちは「善人」だから。
唐突に、逸馬は思い出した。自分が警察官を志した理由だ。
人が苦しむのを見るくらいなら、自分が苦しんでいい。それで人に認められるなら、
何だってよかった。

なら何で、僕が「善人」を傷付けているのだろう。
人より鈍いのだと思う。今回だって、小田のことを雅に問うのが正しかった。
そんな単純に流せることではないのだ。
だってこの人は、大事な人を殺されたのだから。
逸馬は、漸く表情を曇らせた。
それを見た雅は、一筋涙を流した。

 

逸馬が黙ってしまったので、道矢は言葉を繋いだ。
「自分の所為で幸雄君が殺されたと思い込んだあんたは、その衝撃から身を守る為に
 記憶を封印してしまった‥‥憶測だけど、って神経科の先生が言ってたけどね」
雅は身体を震わせて泣いている。
「聞いてた?逸馬君の話」
「‥‥うん」
意外な返事に、道矢は面食らう。
「わかったの?」
雅は、ふるふると首を振った。
「まだ‥‥思い出せない。あの死体が他人にしか‥‥思えない」

―そうか。
死体を見たことでのショックもあるのだろう。
「大丈夫だよ」
道矢は、雅を抱きしめた。普段男勝りの刑事の身体は、とてもか弱く感じた。

 

「逸馬」
雅が、細い声で呼ぶ。逸馬は、漸く思考の海から這い上がった。
「は、はい」
「‥‥お前、成長したな」
涙でぼろぼろの笑顔を見て、乾いた胸が熱くなる。
「そりゃあ‥‥いつまでも雅さんに頼ってるわけにはいきませんから」

 

香西知沙美の量刑を決める際、雅は法廷に喚ばれた。検事は雅の精神状態
―記憶の封印―を引き合いに出し、同情を誘った。
それでも雅は、何とも思わなかった。突然南たちの位置に立っても、そうという気がしない。
ただ、自分の担当した事件についての感想を求められただけだった。

公判で新たに判明したのは、香西の雅に対する殺意だった。
小田の車を運転中、道矢の車に「昨夜の女」を見た香西は、殺してやるつもりで
引き付けた上に、放火したのだった。

 

雅と逸馬は、連れ立って小田の仏壇に先行を供えに行った。道矢も呼ぶ気だったが、
別の事件が忙しく時間が失くなったのだった。
すっかり老いた小田の両親は、悲しそうな顔で深く頭を下げた。
雅ちゃん‥‥やっぱり私らのことは、覚えちゃいないのかい?」
思い出すことは出来ない。しかし、その表情が自分を追い詰めていく。
「‥‥すみません」
「いや‥‥いいんだ。来てくれてくれただけでも嬉しい」
帰り、小田の母親はふたりに向け言った。
「有難う」
ふたりは頭を下げ、車に乗り込んだ。

「雅さん」
「何だ?」
「‥‥僕たち、お礼を言われるようなことしたんでしょうか」
豊かに広がるのどかな水田を眺めながら、雅は言った。
「お前は事件を解決しただろ」
「‥‥そうですかね」
信号が赤になる。雅は車を停めた。逸馬の運転は、乗り心地が悪いのだ。

「逸馬」
雅の顔を見遣る。どうも最近、雅はアンニュイな雰囲気をまとっている。
「お前の無神経さは武器だから、変に考えずに攻めろよ」
きょとんとした後、逸馬はそれは嬉しそうに笑った。
「はい!」
青信号。
「‥‥単純なんだからなあ」
ふたりに穏やかな安堵を与えながら、車は走っていく。何も不安などなかった。
こいつが居れば大丈夫だと、ふたりは小さく笑っていた。