地獄の回想録

2006年からやっているブログの記事を機械的に貼り付けました。

2007/11/06 19:44

『My island』

 

気付いた時には、口中は砂だらけだった。
しわしわになって無数の細かい傷が付いた手を握り締めると、やっと自分が生きているという
実感が湧いて、途端に眠気が襲ってきた。



ぬるまったい風が乾かした白衣は、質が格段に落ちた気がする。生乾きの髪は、
ひたすらにしょっぱい。
暑い。しょっぱいと思ったのは、汗かもしれない。
膝が唸っている。
その内ふと身体の力が抜けて、頭から倒れ込んだ。
気持ちがいい。このままずっとこうして居られたら、と思う。
先ほど―どれくらいの時間だったかはわからないが―眠ったばかりなのだから、
眠気ではない。単なる肉体的疲労だ。
水に溺れ、宛もなくジャングル、という呼び方が正しいのかはわからないが、
とにかくさ迷っている。
少なくとも、じりじりと砂浜で焼かれているよりは、木陰で休むべきだと考えた
のだが、生憎何処も鬱蒼としていて安全に転がれそうな場所がなかったのだ。
だから歩いてしまった。
結局力尽きて倒れているのだから、世話ない。
亜熱帯らしい蒸し暑さは、砂浜と比べてもいくらも涼しくはない。歩けど歩けど、
見えるのは緑、緑、緑。
死ぬのだろう。私は。
死んだら化けて出られるのだろうか。妻の前に出たら驚いて死んでしまいそうだが、
娘はさぞ喜びそうだ。
いくつもの思考が脳内を駆け巡り、意味不明の画像が代わる代わる瞬き、私の精神を
追い詰めていく。

辛い。酷く辛い。
もう暑さも感じない。元から、そんなものはなかったのかもしれない。
こうして誰にも知られずに死んでいくなんて、想像もしていなかった。私は冒険に
興味なんか持たない子供だった。
その結果が大学教授で、研究だって上手くいった所なのに―。
そこで私は、漸く覚醒したかのように身体を起こした。全ての関節がびりびりと
痺れている。

―思い出せない。
私はどうしてこんな所に居るのだろう。海に近付いてなんかいない。船に乗って
いたわけでもない。
いや、何かが引っ掛かる。船?私は船に乗っていたのか?
最後の記憶は、研究員の子がおやつを買ってくると部屋を出た所だ。その後私は、何をした?
そこと今との間に何かがあったことはわかる。輪郭はやたら濃いのに、それは本当に
輪郭だけで、中身は空っぽだ。自然過ぎて変だとも思わなかった。
そんなことがあるのだろうか。
自身のことはしっかりとわかるし、家族だって友人だって覚えている。
違和感がないように、特定の時間に関する記憶だけが封印されているのだ。
外傷か、もしくは心的な何か―私には、全く検討も付かない。
記憶がおかしい理由が何であれ、死にいく者には関係ない。
大粒の汗が、地面に染みを作る。
汗だけではない。雨だ。さっきから小雨は降っていた。
強い雨だ。気持ちの悪い汗を流し、水分と精気を与えてくれる。
雨の音に混じって、私を呼ぶ声すら聞こえた。
どうせいつかは死ぬのだ。
そんなものは必要ないのに。

泉とでもいうべきか。3畳ほどある横長の四角い水溜まりが、そこにはあった。
地下から湧き出ているのか、周囲から水が通っている様子はない。
深さはそこまでない。水は澄んでいて、底はつるつると光っている。飛び込みたいのを、
ぐっと我慢する。
傷だらけの手を洗い、顔を洗い、そのついでに水を飲んだ。声が漏れた。
水をあまり汚したくはない。そこまで広くはないし、当たり前だが循環して
ろ過されているはずもない。飲み水としてキープしておいた方が懸命だ。
さて。少々落ち着いた所で、私はこの島について考えてみることにした。
この暑さに、ジャングルのような木々。取り敢えず、日本の側ではないだろう。
それなら何処だ。検討がつかない。
私の頭に、ひとつの言葉がぼんやりと浮かんだ。

無人島。

何故そう決め付けていたのだろう。もしかしたらここは、観光地の島の一角かも
しれない。そうだ。人が居るかもしれない。

ふと広がった希望は、あっという間に掻き消えた。
そんな保証が何処にある。ここが観光地なら、砂浜に倒れていた私が発見されて
いてもおかしくはない。日本にだって、無人島は6000以上あると聞いた。
世界を見れば、無人島なんて腐るほどあるだろう。
砂浜で助けを求めるか。規模のわからぬジャングルを、ひたすらに進むか―
どちらがいいのかは、わからない。
私は、ロビンソン・クルーソーという男がどうして帰国出来たのかを知らない。
生きる術さえわからない。
食べられるものはあるだろうか。雨をしのげるものがあるだろうか。
火を起こせるものはあるのか。
雨は止む気配がなく、このままだと恐ろしい闇の中で一夜を明かさねばならなくなる。
それは不安だ。
しかし、屋根がなければ火―ここでは明かりの役割―は消える。妥協せねばならぬか。
夜には止んでくれればいいのだが。
そうだ、まずは夜を明かすことから考えよう。目の前にある問題を処理していけば、
自ずと突破口は見えてくる筈だ。
船を待つとか、ジャングルを抜けるとかの前に、今日をどう生きるかだ。
寝床は決まった。猛獣に襲われたら堪らないから、砂浜だ。
風邪でも引きそうだ。体力が落ちれば、風邪でもなめることは出来ない。
今が20年前ならもっと覇気を持って行動出来たのだろうが、残念ながら中年も
いい所だ。体も強くない。眼がいいことだけが、唯一の救いである。
現実感のあることを考えると、追い詰められているという恐れのような感情と、
私はここに来る前と何も変わってはない、というチープな安堵を得るに至った。
少し、悲しくもなった。

木々が揺れる。地響きがする。
―何かが居る!
顔が青ざめたのがわかった。まさか怪獣なんかではないだろうが、こんな風に揺れるなんて。

その黒い影を見た瞬間、私は全てを思い出した。

 

 

アルミの扉が開いた。同じ科の卒業生だった、餡部きょう子ちゃんだ。
「おお」
「久し振り。何漫画なんか読んでんのよ、研究員」
今は何処かの会社で薬品研究をしているらしい。身なりはしっかりしている。
きょう子ちゃんは、室内を少し見回して机に置かれた銅鑼焼きを勝手に手に取った。
さっき僕が買ってきたものだ。

「あれ、中橋さんは?また出てるの?」
銅鑼焼きを頬張りながら尋ねてきた。
「さあ‥‥あの人ボケてるからな。道に迷ってでもいるんじゃないかな」
漫画雑誌を閉じて立ち上がり、大きな水槽に近付く。
「あんたが1番仲いいんでしょ」
「厄介になってるだけだよ。教授が居なきゃ、俺は今頃露頭に迷ってる所だからな」

ジャングルのような飾りの上を、カメが歩いている。教授のペットだ。
白衣の袖を捲って餌のササミをやると、緩慢な仕草で首を伸ばしてぱくりと食い付いた。
「何て種類なの?」
「知らない。教授が海外で買ってきたらしいんだ‥‥熱っ」
水飲みの水を変えてやった拍子に、発熱灯に腕が触れる。
湿度が保たれるように、自動で動く人工降雨機も付いている。亜熱帯の方の生き物なわけだ。
手を振りながら、僕はぼやいた。
「全く、変なとこ凝るんだからなあ」
「‥‥あれ、何か落ちてるよ」
きょう子ちゃんが拾い上げたのは、小さな船の置物だった。小さいといっても、
10センチはある陶器製のものだ。
「危な。ビーカー割れてるし」
ぶつかって落ちたのだろうか。きょう子ちゃんの足元に、ガラスの破片が散乱している。
僕は苦笑いをしてスリッパを履いた足で隅に寄せた。
「やっぱり男の巣だなあ」
「いいじゃないか。後で片付けるよ」
船を受け取り、暫く考えて思い出した。
「そうだ、水槽に入ってたんだ。教授が洗ってたけど、何で落ちてるんだろうな」

水の中に入れると、船は帆の辺りまで水に浸かった。
「沈んでるじゃん」
「沈没船なんだろ。で、教授に用だったの?それとも俺に会いにきた?」
おどけて言うと、きょう子ちゃんは軽く笑った。
「馬鹿。中橋さんに呼ばれたんだよ、世紀の大発明だから来ないか、って」
「ああ」
そういえば、教授は証人として人を呼んでいたのだった。
「自分の身体で実験するなんて、考えられないけどね」
「でも中橋さんらしいや」
一緒に椅子に座る。銅鑼焼きは、残りひとつになっていた。
「で、何作ったわけ?」
「スパイか?教えないよ、教授が来るまでは」
人工降雨機が発動した。きょう子ちゃんは肩を跳ねさせる。
「はは、びっくりしてやがる」
「うるさい」
昔の話や近状を話している内に、時間は流れていく。

しかし、さすがに遅い。僕が帰ってきてから、数十分は経っている。
立ち上がって、奥に続く扉を開けた。様々な薬品や機器が並んでいて、
そこに教授の姿はない。
「懐かしい。教授よくここに居たよね」
きょう子ちゃんが後ろから覗き込んできた。
「で、例の新薬は何処?」
「あの箱の‥‥開いてるな」
締め切っていた筈なのに。嫌な予感がした。恐る恐る近付く。

―ない。
まさか、とは思う。しかし、僕が買い物に出た十数分の間に何かがあったとしか
考えられない。
「‥‥盗まれたのか?」
「え!」
きょう子ちゃんが驚きの声を上げる。
こんなに長い間、教授は何処に言っているのだ?きょう子ちゃんを呼び出したなら、
待っているのが普通だ。

寒気がした。
もしかして教授は、薬の為に何者かに襲われたのではないか?
「教授!中橋教授、何処ですか!」
返事は、勿論ない。
「教授!」

かつん、と固いものを叩いた音がした。何だかどきりとした。水槽からだ。
きょう子ちゃんが、動揺した様子できょろきょろと辺りを見回している。
「ヒメだろ」
そんなのを気にしている場合ではない。
「何?」
「ヒメ。カメの名前だよ」
きょう子ちゃんは、首を傾げた。余り名前を言うつもりはなかった。恥ずかしいからである。
「ケータイは?」
「あの人いつも充電してこないんだ。くそっ」
部屋を飛び出し、テーブルに近付く。かしゃん、と何かが足元で音を鳴らした。
さっきのビーカーだ。

―待てよ。
あの人のことだ。きょう子ちゃんが来る前に薬を飲んで、びっくりさせようだなんて
馬鹿なことを考えるかもしれない。
嫌な考えを振り払い、スリッパの裏を見る。何も付いていない。
「きょう子ちゃん」
きょとんとした表情で、きょう子ちゃんは顔を上げた。
「何?」
「中橋教授が作った新薬なんだが」
この際、言わなければ。どうせ見せるのだ。それに、教授の「捜索」が最優先である。

「‥‥服薬すると、その人の細胞を変化させて身体を縮ませる薬なんだ」
これが完成すれば、使い方は無限に広がる。医療や科学の発展に、
どれだけ貢献することだろう。
「そうなの?凄い‥‥けど、今言うこと?」
「ああ。もしかしたら教授は、その薬を飲んだのかもしれない」
きょう子ちゃんは僕が何を言っているのか理解出来ないかのような顔をした。
それがどうしたの、とでも言い出しそうだ。
「つまり‥‥教授は超小型化して、この部屋の何処かに居るかもしれない」
漸く危機を感じたらしく、きょう子ちゃんは床を見回した。
「どっ‥‥どうすんの!このまま見付からなかったら」
「だから探してほしいんだよ!足元に気を付けてくれよ」
四つん這いになって、そっと床を進む。小型化したとして、1センチ程度だろうか。

また、ヒメが水槽を叩いた。餌はやったばかりだというのに。

 

 

ヒメは肉食なのだ。
「千木良!」
暑さだけではない、冷や汗がぼたぼたと流れ落ちている。気が遠くなりそうで、
声を張り上げて研究員の名前を呼んだ。聞こえるのだろうか。
この中がヒメを飼っている水槽だということはわかった。島でも何でもない、私の箱庭である。

薬を飲んだ私は、薬の強すぎる作用により意識を失ったのだ。その後、どうして
私が水槽に入る経緯になったのかわからない。
いっそ、どうでもいい。
そんな場合ではないからだ。
息を切らしながら、水槽の端まで来た。たかが1匹のカメの為に、どうしてこんな広い水槽を
用意したのだろう。
手元にあった流木のオブジェを持ち上げようとするが、こんな身体だ。
引きずるのが精一杯である。

「おい!誰か居るだろう!」
返事はない。
何か合図が出来るもの―カメに食べられてしまう前に。
恐怖感が私を支配している。くたびれていたのも忘れたかのように、私は石を掴んで
ガラスを打ち鳴らした。
「助けてくれ!おい!」

地響き。水が頬に飛んだ。
真横で、ヒメが水に浸かったのだ。小さな黒い目が、ぎろりと私の姿を捉える。
ついにへたりこんで、ヒメを見上げる。
全然「姫」ではない。怪獣以外の何者でもない。
心拍数が上がって、口の中が渇いてきた。
ヒメが近付いてくる。もう終わりだ。

 

いくら何処を探そうとも、教授は見付からなかった。
勿論携帯電話は繋がらない。繋がっても、彼は出ることが出来るだろうか。
「三郎君‥‥警察に電話しようよ」
諦め顔のきょう子ちゃんが呟く。
「薬を飲んで縮んだんじゃなく、さらわれたのかもしれないし」
「‥‥そうだな」
そろりと電話に近付く。隣の水槽では、ヒメがこちらを睨んでいた。
何とも言えない気持ちで睨み返す。
「餌か?」
ササミを取り出すが、噛み付いてこない。
「ん?」

ヒメの口に何か、白いゴミが付いていた。まるで布切れのような何かが。
「何か食べたのか?」
ヒメは、返事をするかのように首を下ろす。
僕は悲しく微笑みながら、受話器を外した。