地獄の回想録

2006年からやっているブログの記事を機械的に貼り付けました。

2008/04/03 23:40

『熱帯夜』 

 

 お前は正しいことをしていると思い込んでいるんだよ。
 友人の言葉に私は強く反論した。俺の何が間違っているんだとか、そういう素直な言葉を選んだと思う。
 友人は子供のような私に向かって、何と言ったのだろうか。そうかい、と呆れて笑っていたのは覚えている。

 緩々とした坂を、シャッターの閉まった店が取り囲んでいる。終電のなくなった時間、商店街は私以外の生き物は死に絶えたかのように静まり返っていた。瞬く街灯に群がるコバエすら姿を見せない。
 坂を上り切って細い路地に入り、真っ直ぐに進む。ひっそりとした住宅街に家はある。
 辺鄙といっても住宅街だ。家々からちらほらと明かりが漏れている。しかしそのどれも私を受け入れてはくれないのだ。

 玄関の前で鞄を漁り、鍵を回す。扉を開けた瞬間に、氷のような冷気が私の頬を撫でた。
「エアコン効きすぎだよ」
 私は誰に宛てるでもなく言った。しいて言うのなら、母であろうか。
 熱帯夜との温度差に、身震いする。私はその時初めて、シャツの下にじんわりと汗をかいていることに気付く。毎日そうだ。夏が終わるまでこうなのだ。

 そんな細かいことに気を配る程の神経が、今の私にはないのだろう。
 廊下から居間の明かりを付け、ひっそりとした家具たちに迎え入れられる。幼い頃恐ろしくて堪らなかったひとりの夜の空気が、心地よい。
 私はネクタイも外さずに、ソファーに寝転んだ。倒れこむようだった。愛らしいサイズのソファーは優しく私の身体を揺らす。もやもやとした意識が足のつま先まで走り抜けるように渡る。私は漸く覚醒したように目を開ける。
 上半身を起こし、しっかりとした足取りで自室に向かう。この時、やっと私は私に戻ってきてくれるのだ。

 シャワーを浴び鼻歌なんか歌ったりして、全ての痛みを蒸気に紛れ込ませる。浴室換気扇が私の汚れを切り裂いてくれる。
 風呂上りに発泡酒を1本空け、深夜番組を見る。愚劣で嫌らしい笑いは、私の中にじんじんと沈み込んでいく。

 厭世を唱え人を嘲笑い性悪説に頷き街角の若者たちを睨む若者――そのどれもが自分だった。
 一瞬の感情だったのに、私にはどうしようもないくらい脳の深く深くに根を張ってしまう、私だ。

 人は矛盾を抱えた生き物だ。過去を見つめ返すとうんざりするくらいにその言葉に納得して、一瞬の自分を褒めたりけなしたりする。後悔に塗れる。たった一瞬が、とても重い。
 未来はずっと先にあってふわふわと光っているのに、過去は私の体内でくねくねと蠢く
 暗い階段だ。1段上る度に、私は私を笑いたくなる。過去は決して、面白いものではない。
 まるで何かの儀礼のように、毎夜と同じ時間に布団に潜り込む。
 夜は好きだった。しかし夜よりも、静寂と平穏が好きだった。


*過去


 母は定期的に仏壇の前に正座し、何じゃらうんじゃらと念仏を唱える。小さな弟がそんな言葉を理解するとは思えない。大きくなった私にも、さっぱりわからないのだ。うちは何宗なのだろう。どうでもいい話だ。

「ほら、あんたも手くらい合わせていきなさいよ。いつもいつも」
 出勤まで余裕を取る性質だから時間はたっぷりある。別に手を合わせないつもりはない。母が座っていたから、出来なかったのだ。
 線香に火を付け鈴を叩いて、手を合わせ目を瞑る。
 おはよう、今日も頑張るよ。嘘っぽく、そんなことを念じた。

「幸人が死んで何年経ったと思ってるの?」
 母は静かに、私をなじるように言った。表情から見て、本人は別になじっているわけではないようだった。
「僕が10歳だったから、14年かな」
「14年・・・・老けるわけだ」

 そんなことか、と私は息をついてテレビを見遣った。おしどり夫婦が離婚したらしい。オシドリというのは普段は雌雄別行動で、繁殖期が来る度に相手を変える。
 チャンネルを変えると、虐待のニュースが報道されている。1歳にも満たない娘を布団に押し付け、窒息死させたそうだ。オシドリがどうとかいう裏で、人が死んでいる。

「馬鹿だよねえ」
 母が呟いた。
「馬鹿だ」
 私はそれ以上言わなかった。言う度に階段を上がり、後悔を積み上げることになる。過去はちょっと薄味の方がいい。

 真樹という女性に会ったのは、幸人が死んで数日後の、葬式の時だった。当時小学4年生だった私は、年上の女性というものに神秘的な憧れを持っていた。真樹はその憧れを具現化したような存在だった。
 中学生くらいの女の子だった。母の歳の離れた従姉の娘だから、もうちょっと上だったかもしれない。

 つやつやした黒髪を肩の辺りですっきりと切り揃え、喪服(制服か?)に身を包み長い睫毛を伏せていた。
 話してみたい、と思った。積極的な性格ではなかったが、子供には根拠のない自信がある。厭われることなんか考えもしない。弟の葬式に来ているのだから親戚だ。親戚は親戚を嫌う筈がない。

「明くん?」
 真樹は自分を知っていた。どれだけ感動しただろうか。
「可哀想だね」
 真樹は酷く冷めた感想を言った。私が話したいのはそんなことじゃなかった。
 しかし、ここで話せるのはそれだけだった。短慮で発想の乏しい私でも――子供だからではなく、私の本質である――、この一言の会話で察することが出来た。

 その後、真樹と会うことはなかった。彼女の名前と私との血縁関係は母に聞いて知った。
 留学しその先で結婚したという話は、真樹から電話で知らされることになった。
「幸人くんのお葬式の日のこと、覚えてる?」
「ああ、うん」
 気持ちの悪い感覚があった。聞きたくはなかったが、聞くよりなかった。
「びっくりしたよ、あの時」

 私は好意を持って真樹に接した。真樹はそれを読んでいた。幼い頃犯した罪の暴露のように聞こえた。恥ずかしいな、で会話を終えた。
 電話を切った後も、ちくちくするような衝撃があった。
 真樹は私を嘲笑っていた。
 幼い私ではなく、24になった私を嘲笑っていた。
 いい気分ではなかった。

 内海浩也。
 この十数年間、彼は誰と顔を合わせて生きてきたのだろう。裁判官。看守。牢の中の同士。警察官。弁護士。他人。
 いや、実際私だって変わらないのかもしれない。上司。同僚。魚屋。後輩。お婆さん。友人。母。他人。

 母はただの1度だって、父の愚痴を言わなかった。それ所か、その名前を口にすることもなかった。
 気付いたら名字も木谷になっていたし、アルバムに眠っていた筈の父の写真は私の手の届かない所に置かれていた。今更見る気にはならない。

「内海明のが格好よかったよね」
「うん。ね」
 母は軽く答えた。
 全て知っていた。父が犯した罪の重さも母の葛藤も。それを知りながら、私はわざと軽口を叩いていた。それこそが、幼い私の使命だと思っていた。

 父が逮捕されていなければ、私の人生は変わったのだろうか。精々出席番号が前の方になったというくらいではなかろうか。
 そんなことを言ったら、母を知る人は怒るかもしれない。
 一体どんな苦労を積んできたのか、私は知らない。母が言わなかったからだ。色々な人に出会い、色々な感情を背負っただろう。私には想像も付かない程に。

 私の、無意味なものを詰め込んだだけの薄っぺらな人生では、想像の参考にもならない。
 内海浩也だって、私の知る以上に複雑な筋道を辿っている筈だ。
 弟の首を絞めた手で、今は料理などをしているのだろうか?
 私の思考は、その程度である。


「お前は正しいことをしていると思い込んでいるんだよ」
 友人は軟骨唐揚げを頬張りながら言った。私はゆっくりと顔をしかめる。
「何処ら辺が?」
「逃げることが」
 酒の席だったので、お互い夢の中のように喋っていた。
 私も友人も悪酔いする体質ではないので、穏やかな飲み会だった。

「何から」
「俺もよくわかんないから偉そうに言えないんだけどね」
「いいよ。言ってよ」
 友人は間を置いて、言いにくそうに言った。

「幸人くんよ」
 私が幸人から逃げているだって?
「幸人くんの話をすると、上手く逸らされるんだよ。いっつも不思議に思ってた。親父さんのことはネタみたいに話すのに、幸人くんのことにはさっぱり触れないの」

 よくわからない。酒が回ってきたのだろうか。
 過去を探る。記憶の階段を下る。意識の底に沈む。急速に浮かぶ。
 酒場のうるさいだみ声が、私を寝かせてはくれない。

「どういうことだ?」
 私はやっとそう言った。
「だから、ね。お前は幸人くんを忘れようとしてるんじゃないの」

 無意味なものを詰め込んで。無意味な階段の先が見える。

「別に興味本位じゃないよ。そりゃ心の傷だろうし、触れられたくない所だろうけど」
 友人は真っ直ぐに私の目を見つめた。

「お前の弟の幸人くんがお前の父親に殺されて死んだことを忘れるのは、卑怯じゃないか?」

 私に責任があるというのか?
 幼かった私に、父の凶行を止めろというのか?

「俺が間違ってたか?」
 目の前で首を絞められていたのだ。
「責任追及したいんじゃなくて。お前に深く関わりのあった人たちだよ。お前だけ目を背けるのはずるいよ」
「うるさいよ。俺の何がわかるんだよ。よくわからない。俺は悪くない」
 私は頭を抱えると、ぎりぎりと歯を食いしばった。

「そうかい
 友人の呆れた声がする。ふらふらと思考を動かして、無意味な一瞬を手にする。
 階段の1番遠くに、忌まわしいものを押し込める為に。


*独白


 今日も熱帯夜だ。いつもと同じ繰り返しだ。
 鏡の中の自分は少しずつ衰えて、大同小異の日々。私はその一瞬の積み重ねが好きだ。

 母が死んで、念仏も聞こえなくなった。家は更にしんとして、帰宅する私を包み込む。
 線香に火を付け鈴を叩いて、手を合わせ目を瞑る。
 お休み、明日も頑張るよ。嘘っぽく、そんなことを念じた。

 ふと顔を上げると、母と祖父母の遺影の横に見慣れぬ写真が置いてあった。
 少年だ。少年が歯を覗かせて笑っている。
「可哀想に」
 こんな幼くして亡くなってしまうなんて。

 少年にしても無念だっただろう。

 

 私はまるで何かの儀礼のように、毎夜と同じ時間に布団に潜り込む。
 夜は好きだった。

 しかし夜よりも、何よりも、静寂と平穏が好きだった。