地獄の回想録

2006年からやっているブログの記事を機械的に貼り付けました。

2006/11/28 21:35

『崩れ始めた破壊』

 


八尾沢は悩んでいた。
それは、自分の書き進めていく小説が、次第に赤く染まっていくことであった。
原稿に書き込まれた、己の赤ペンによる文字のせいである。

パソコンを使わない八尾沢は、毎回手書きの原稿だ。
担当に訂正を求められた箇所を直していく内に、真っ赤になってしまった原稿。
―今まで、こんな事はなかった。
担当も、八尾沢の不調を気遣った。

「先生、大丈夫ですか?この所」
「ああ。どうも執筆が上手くいかないようだ」
深夜のファミリーレストランで、煙草をくゆらせる八尾沢。

ウェイトレスが駆け寄ってきて、携帯電話と油性ペンを差し出した。
「八尾沢さん、ですよね。作家の」
「そうですが」
そして、深々と頭を下げた。
「サインお願いします。大ファンなんです」
周りに客が居ないからいいものの、こんな光景を見たら誰でも怪しむだろう。
しかし八尾沢はにこやかに承諾し、彼女の携帯電話に己のサインを書いた。
彼女は、さも嬉しそうに笑って言った。
「有難うございます!次回作、楽しみにしていますね!」
八尾沢は、そっと赤の原稿を鞄に隠した。

「スランプ‥‥てやつですかねえ」
担当の言葉に、八尾沢は溜め息を吐くことしか出来なかった。

 


さて、八尾沢は気分転換に、自らの過去の作品を読み返す事にした。
「黙約の抗い」。彼のデビュー作であり、この前の受賞の際、
文庫版で復刊された。
横領犯の男の視点で、荒れていく会社内をコメディータッチで描いている。
溢れ出るアイディアと、破壊衝動を一心に原稿に込めたのだ。
成程、飾り気のないその文章。

自分の作品ではあるものの、八尾沢は引き込まれていった。

俺は、これを越えればいいのだ。この心地よい読後感を、作り上げるのだ。

 

「うーん‥‥」

独り身の八尾沢には、安らぎを提供してくれる家族も居ない。
人を雇うのも、何だか不自由になりそうで嫌だ。
だから、筆が止まれば頭を抱えるしかない。
コーヒーが飲みたければ自分で入れるしかない。

1行書いては書きなおし、消しゴムをかけては紙を傷めた。

 

 

 

「自分の書きたいものを見失ったんだよ。俺は」
今の状態を表すには、この言葉が一番似合っていると八尾沢は嘲笑しながら
思った。

今日は、静かではない深夜のファミリーレストラン
アイスコーヒーを、手の中で弄ぶ八尾沢。

担当は、首を竦めて笑う。
「いやあ先生。たまには息抜きも必要ですよ。
 何処か旅行とかに行くのもいいです」

「今はシーズンだろ。ホテルはとれるかな」
ふふふ、と奇妙に笑った。
「俺、彼女が逃げるから旅館の予約ぱあになっちゃって。
 代わりに誰か誘って行ってくるといいですよ」

とはいっても―八尾沢の友人に、そう暇な人も居ない。

「‥‥ひとりじゃ駄目?」
「‥‥もしかして、淋しい人ですか?」

 

 

 


「いい風呂だったー」

実は、独り言である。
浴衣は、中々似合う八尾沢。微塵もない小説家らしさを、少しだけ産んでいる。

たまには仕事のことなど忘れて、のんびりしよう。
あぐらを掻いて、持ち込んだ缶ビールを呷った。
喉を流れていくその冷えたビールは、八尾沢を幸福に誘った。

そこで、ふと気付く。
己の破壊衝動が、推理小説以降からぷっつりと姿を消していたということに。
それでも、八尾沢は幸せだ。

しかし、それでは今までのような「破壊」は書けなくなるのではないか。

「破壊の男」というその異名も、もうそろそろ飽きられるだろう。

「俺が行くのは新天地だ、この野郎」
当然、独り言である。

 

 

 

パラノイアの駅から」。
彼の最新作である。
旅行から帰ってきてから新たに書いたこの作品は、
今までの八尾沢の文体は残しつつ、イメージをぶち壊しにするものだった。

「八尾沢さん‥‥もう壊すものも無くなっちゃったんですね」
ウェイトレスは、サインしてもらった新刊を胸に抱いて、それだけ言った。
八尾沢は、微笑む。

「もう読んだの?」
頷くウェイトレス。
「千野は死んだと思いました」
「ああ、ね。前の俺なら殺してたね」

壊すものが無くなったのではない。
書きたいものを見失ったのでもない。
壊す必要を、八尾沢は失ったのだ。

ウェイトレスは数分感涙して、仕事に戻っていった。

再び、深夜のファミリーレストラン
今日は、またおっとりと寡黙な店に戻っている。
「多分旅行先じゃなくこの事に気付いてたら、もう書けないって
 騒いでたかもしれない」
消えた破壊衝動を取り戻そうと、八尾沢は藻掻くだろう。
しかし、幸福の中。自分の事を落ち着いて見通せたから、
今八尾沢は平常で居られるのだ。

担当は、にっこりと笑う。
「力になれたんなら、良かったです。今回の、俺ちょっと泣きそうになりました」

「へへ。有難う」


ある日突然、あの由々しい衝動が舞い戻ってしまわないように。

 

それでも、犯した罪は消えないんだ。

破壊は罪悪感が押し込めた感情だという事に、八尾沢は目を背けている。