地獄の回想録

2006年からやっているブログの記事を機械的に貼り付けました。

2006/11/27 18:29

『美しい破壊』

 

彼の名前は、矢尾沢 久男。年齢は40になる。
職業は小説家。時には中々右上がりの売れ行きを見せる事もある、
名の知れた作家だ。

彼の作品の一番の特徴は、細やかだがスピード感を失わない
「破壊」の表現と、その際の登場人物のリアルな感情表現である。

時には大きな鉄橋を壊し、またある時には死んだ娘の作った自分の
似顔絵をびりびりに破る父親の心を描いてみせた。

 

さて、そんな彼が次の作品として選んだのが、推理小説。ミステリーである。

以前から書きたいと担当に話していたが、今までの彼の作品に
ミステリーの要素は欠片もない。

しかし、既に矢尾沢はその原稿を上げていた。
タイトルに目を通し、その彼独特の文体に一文字一文字目を通しつつ、
担当が読み終える頃には、日もすっかり落ちていた。

「いいじゃないですか。何の相談もなしでここまで書いたなんて、
 ちょっと悔しいですね」

好反応を見せる担当に、矢尾沢は嬉しそうに笑った。

 

さて、そして全国の書店に一斉に並んだその本。
帯には、著名なミステリー作家の推薦文の下に、
「破壊の男・矢尾沢久男初のミステリー」と書いてあった。

破壊の男―確かに、今回の推理小説でもその力は十分に発揮されていた。
しかも今回は「人の破壊」。
グロテスク、という事はない、薄気味の悪さ。
とても初めてとは思えないトリックで、本は爆発的に売れ、
この年の一番の賞を取った。

 


矢尾沢は幸せだった。
勿論、富と名声を手に入れたこともその要因のひとつだが

己の破壊衝動を満たす、最終形態。
―美しい殺人を起こす事が出来たからである。

 

誰も、その小説の人殺しが実際に起きた事だなんて、
その現実感のある「破壊」が、全てこの男の手で実際に起こされていただなんて、
気付きもしなかった。


「次は・・・・何を書こうかな」


ラブストーリーにでもしようかな、と考えながら、
矢尾沢は自らの姿が映る窓ガラスにコーヒーをぶちまけた。