地獄の回想録

2006年からやっているブログの記事を機械的に貼り付けました。

2006/09/10 22:33

『薔薇』

 

背の高い椅子に、私と彼女は向き合って座った。
買った時は彼女と「低すぎるかな」と言い合ったテーブルも、
今では良い買い物をした、と思っている。
熱いコーヒーにクリームを入れながら、大きなマグカップを揺らすと、
中で白と暗褐色が混ざり合って金魚のおびれのような模様を描き出した。

「ごめんね」
彼女はマグカップの中を覗きながら、消えそうな声で言った。というより呟いた。

「君が謝る事じゃ無いよ。ただ突然の事で、頭が着いていかないんだ」

 


彼女から実家に帰らなければならない、と聞いたのは昨日の夕方だった。


土曜日、今週の仕事も終わりなので、明日は彼女と海にでも、いや買い物の方が、
と考えながら缶ビールを開けていた。
ぷしゅうという良い音がして、私の心は更に安らいでいた。
そんな時だったので、余計に私は衝撃を受けたのだろう。

彼女からのメール。そこには父親の会社が不祥事で倒産し、その所為で母親は病に伏せ、
当の本人の父親は失踪した、と書いてあった。

私は驚いて、彼女に電話をかけた。
電話の向こうの彼女の声は、ひょろひょろと飛んでいってしまいそうな程頼りなかった。

「大丈夫なのか?お母さんも」
「うん‥‥」

それだけ言うと、彼女は鳴咽をあげ始めた。
小さく何か言っている。

‥‥ごめんね?

「何謝ってるんだよ。君は何も悪くないじゃないか」
「駄目なの。明日、実家に帰るの」
「き、君がかい」

私は缶ビールを手から滑らせ床にぶちまけ、
慌てて近くに落ちていたスウェットのズボンで拭いてしまった。

「おばさん、ううん、母さんの妹がね。うるさい人なのよ元から。
それで、家がこんな状態なのに娘は遊んでるのかって」

私は落ち着きを取り戻し、その後どうしても帰らなければならないのか、と何度も聞いたが、
彼女はその度に的確に理由を述べた。
まるで用意した答えのようだった。
暫く聞いていると彼女の叔母が憎らしくなってさえいた。

「じゃあ、明日引っ越すんだね」
「うん」
「準備手伝うよ。それから、二人でゆっくり話そう」
「うん‥‥」
私は、彼女を慰める事で自らを落ち着かせていた。
布団の中で、良い大人だと言うのにわんわんと泣いた。

 

「すっかり広くなったね」

私は家具が無くなって寂しくなった彼女の部屋を見渡した。
小さな靴箱も、二本の歯ブラシも、
彼女がきゃあきゃあ言いながらドリアを作ったキッチンも、
焦げ臭いそれを食べて笑い合ったこのテーブルも、
実家に移せば全て要らないモノなのだ。

私の頭は真っ白だった。
言いたい事があった筈で、私は手探りでその言葉を探した。

無言のまま、私達は引越し業者が来るのを待った。

 

「ねえ」
彼女は上眼使いに私を見た。
「なんだい?」

「結婚、してくれませんか」

今度は手からマグカップを滑らせた。
熱い液体が床にばらまかれた。

「だ、大丈夫?火傷してない?」
「大丈夫だよ。僕にはかかってないんだけど、ごめん椅子を汚しちゃって」
「良いのよ。もう捨てちゃうから」
彼女は悲しげに笑った。

「け、結婚」
「駄目かしら」
長いまつげを伏せると、眼に大きな影がかかった。
「いや‥‥君が良ければ!」
つい立ち上がり、お陰でコーヒーを踏んだ。

こうなってしまったら結婚しかない。
そうすれば口うるさい叔母さんも彼女が此処に残る事を許してくれるかもしれない。
私は何より、彼女と別れるのが辛くてしょうがない。

きっと向こうに行ったら別の男と愛し合って、結婚してしまうのだろう。

ワガママかもしれないが、考えるだけで嫌なのだ。

「うふふ」
逆プロポーズ、しかもかなり情けない状況だ。
私はそれでも舞い上がり、にやにやと更に情けない笑みを浮かべていた。


私達は、晴れて夫婦になった。

 


ただ、私は少々気掛かりな事がある。
「なあ」
「んー?」
彼女は娘をあやしながら答えた。

 

私が逆プロポーズを受けたその日、共に彼女の実家を目指した。
その途中、彼女が言ったのだ。

「ごめん。メールの内容嘘なの」
「へえ!?」
私は電車の中で素っ頓狂な声をあげた。

「友達がね、貴方をからかってみようって。ごめんね私は気乗りしなかったんだけど」
「じゃあ何で引っ越しの準備まで」

「結婚したら、貴方の家に住むんだから」
準備は早い方がいいでしょ?と彼女は言った。
「じゃ、じゃあ僕がプロポーズ断ったら」

彼女はにっこりと笑って、それ以上何も言わなかった。

 

「どうするつもりだったんだ?」
随分と古い質問だ。

彼女はあの時と同じように笑った。
「貴方が断る訳がないじゃない」

私が言おうとしていた言葉、それもプロポーズだったのだろう。
だから断る筈もない。

私は、懐かしくなって少し笑った。

 

 


あんなメールを送っといて、お人よしの彼が断れる訳無いでしょ?

彼が可愛いらしく微笑んだので、私はにやりと口の端を上げた。