地獄の回想録

2006年からやっているブログの記事を機械的に貼り付けました。

2006/07/10 19:52

『粉々の楽園 2』

 


生徒の減少が原因だった。
仲の良い3人組の女学生達と、初老の夫婦が一気に教室を辞めたおかげで、
教室長は閉めざるを得なくなった。


僕がいつもの服装で出勤した時に、教室長はぽつんと教室の真ん中に
立ちすくんでいた。室内の空気は、普段の絵の具の臭いだった。

「おはようございます、平田さん」
振り返った彼の顔は寂しげで、彼の眼鏡に外から降る春の日差しがやけに
反射しているのを見て、やっとこの部屋の白熱灯が点いていない事に気づいた。
「おはよう」

教室長は僕から見れば「お父さん」位の年齢で、小さい頃から絵を教わっている。
彼はいつも落ち着いていて、僕が馬鹿をして彼の愛車に傷をこしらえた時以外に、
彼が調子を崩した所を見た所がない。

この時の声も、実に落ち着いていた。

「ちょっと座っていてくれ」
「はい」

僕は教室の隅のソファーに座った。
教室長は電子ポットから急須にお茶を入れ、お茶を出してくれた。

「これ、何処にあったお茶ですか」
「本棚の上」
「あれ賞味期限2年前ですよ?」
「大丈夫だ。2年前なら君も僕も少しも変わってはいまい」
「筒の中は変わりますね。しかも2年前の僕は大学生です」

とは言いつつも、僕はお茶をすすった。
「どうだ」
彼は湯飲みを熱そうに持って聞いた。
「すっぱい」
「じゃあ止めだ」

僕に毒味させたワケだ。僕は黙って、慎重に湯飲みを机に置いた。
すると、教室長は突然ヒザに手を置いて頭を下げ、小さな声で言った。
「不甲斐なくてごめん」
嫌な予感はした。
「今日から僕らも職探しだ」

はっきりとそう言われても、僕の中に焦りはなかった。
実感が湧かないからかも知れない。

この時理解出来たのは、彼が作ってきたこの教室が無くなって、
それは車の負傷よりもずっと困窮する事では無い、という事だった。