地獄の回想録

2006年からやっているブログの記事を機械的に貼り付けました。

2006/07/10 20:34

『楽園の存在 3』

 

彼の最後の残業から、もう1ヶ月が経った。
今年は梅雨でも雨が少なく、いつの間にか夏になっていた。
さすがに私でも毛布を投げ捨てて、白のワンピース1枚でベッドに転がっている。
窓が無いから、風が無くて暑い。
蒸し器の中のサツマイモもこんな感じだろう、と考えていると、気分まで落ち込む。

私は去年までは夏は大好きだった。
何よりずっと上から圧迫するようにそびえる青空に、異質な筈なのに
すっかりと溶け込む真っ白の入道雲が大好きだった。
少し遠くまで彼に車を出してもらって、良く2人で青々とした柔らかい草原に寝転んで
雲について話していた。いや、私の話に付き合ってもらっているという様だったか
と聞かれればそうだったかも知れないのだが。
只の水の集まりに関して、どうしてそこまで話せるのだろう、と思うほど話した。

闇に映える花火も夏の楽しみの一つ。
美しいのは一瞬だが、目をつぶるとまぶたの裏のスクリーンに写っている様に
花火が見えるのだ。

でも今のこの暗闇では、見上げても白の入道雲なんか見えないし、
花火も弾けたりしない。
今、私がそれらを見たら眩し過ぎて目が潰れてしまうのではないかと思う程
私の目は闇に慣れていた。
もう、私の足元辺りは闇に埋もれていて、何処からが身体なのかも胡乱だ。
この部屋の光源はスタンドライトと携帯電話だけで、最近は明るくても
見る物も無いので、スタンドライトも無用の長物になっている。

「私、本当に具合が悪いのかしら」
「どうしてだい?」
私の髪をなでながら、彼はいつものように言った。
「だって、ちょっとだるいけどこれくらいじゃ普通だと思う。もっと身体が
 悪くても、こんな所には閉じこもらないわ。どうして私は
 こんな所に居なくちゃいけないの?」
彼の手が止まった。
油絵の具の香りのする皮の厚い手の平が、私の耳元で脈を打っていた。

「君は身体が悪いから」
「本当の事を言って」
「本当だよ!」
小さな部屋がわん、と震えた。大声を出した後彼はいかにも
しまった、という顔をして私の上の手をどかして髪をかき上げた。
彼のこんな声は、初めて聞いた。
「ご、ごめん。急に大声を出して」
私は、自分でも不思議な程落ち着いていた。
「良いの。私が変な事を言うからいけないの」
それでも、まだ何処かにわだかまりが残っていた。

「具合が良くなるまで、私はここに居るから。会いに来てね」
「・・・・うん」
叱られた子供のようだった。
「ごめん」
彼はそれだけ言うと、部屋を後にした。
どうしてそんな事を言ったのだろう。

彼の居なくなった部屋は、やけに暑さを増した。