地獄の回想録

2006年からやっているブログの記事を機械的に貼り付けました。

2007/04/29 19:55

『TAXI』


夜のタクシー業は、ちょっとした恐怖を伴う。

幽霊とか、馬鹿げたものじゃないぞ。酔っ払いだ。

車内で吐かれて、オヤジのゲロを処分して、それでも微かにつん、とくる臭いと
ストレスの中で街を走らなければならないのだ。

だから、俺としてはまるで幽霊の如く真っ白の、素面の女性を客に迎えたいのだ。

 

今、まさにその時。
線の細い、一般的に言う美人。

「どちらまで」
「南写真商会まで‥‥宜しいでしょうか」

まさに、幽霊を具現化したような女性。
俺は軽い返事をして帽子を被り直し、「満席」という表記を掲げた。


エンジンを踏み、ネオン街を離れ、海沿いを走る。

「私、南さんとこの店主さんと、同級生だったんですよ」
「そうなんですか‥‥」

興味がないようにも、驚いたようにも聞こえた。

「あれ、南さんの知り合いとかじゃ」

この夜に、写真屋に行くのもわからないから、自宅なのかと思ったのだが。


女性は、少し躊躇いがちに答えた。

「あそこの‥‥亡くなった、息子さんの」
「ああ。冬樹君、だったかな。可哀想にねえ、去年、かな。まだ若かった‥‥
 貴女くらい、でしたかね」

バックミラーから見る顔は、何の感情も帯びていなかった。

「わたしは、彼の恋人でした」

何となく、予想はしていたが。

「ああ‥‥こりゃ、失礼」
「いいんです。わたしも、もう」
「忘れちゃいけませんよ」

 

長い、沈黙が続いた。
左側に、真っ黒の海が広がっている。
もう、目に映るくらいにある速度標識を越えれば、南写真商会は直ぐだ。

「わたし、彼のあとを追う気です」


―厄介な客を乗せてしまった。

何よりも、始めに出てきたのはそれだ。

「死んでもいいことないですよ」
「生きていてもいいことがありません」

俺はため息を吐いて、バックミラーを睨んだ。

「言わないで欲しかった。気にしてしまうではないですか。死ぬなら、人に迷惑を
 掛けないでください」

女性は、薄く微笑んだ。
嫌な笑いだと思った。


「彼の家の前で死ぬと?」
「ええ。見せしめです。冬樹とわたしを引き裂いて、挙げ句に死なせた、あいつらへの」

強く、ブレーキを踏み込んだ。

「着きましたよ」

3400円を差すメーターを、俺は切った。


「代金は要りません」
「何故ですか」
「葬式には出ませんが、貴女に関わってしまった身です。取っといてください」


女性はぺこり、と頭を下げてタクシーを降りた。
俺の真っ黒のスーツは、喪服を着た時のように重く沈んでいた。