地獄の回想録

2006年からやっているブログの記事を機械的に貼り付けました。

2007/04/29 20:0

『小さく訂正・彼の動機 家鳴』


始めに鳴ったのは、電子ジャーだった。

成程、蓋のそれなんて目覚まし時計のようじゃないか?

僕は五歳だったが、突然鳴りだした電子ジャーが、米の入った目覚まし時計だとは
思えなかった。
ただ、うるさくて堪らない。
耳を塞いでも無駄で、僕はそれの息の根を止めるようにそれを叩き、ひとり泣いた。


幼稚園の友達は、その話に興味を示さなかった。
そりゃそうだ。つまらないから。
両親に言えば、よかったねえ、と返された。
何がよかったねえ、なのかを聞けば、電子ジャーが話し掛けてきてくれているんだから、と
その頃でもわかる嘘を吐いた。

だから僕は、それ以来この話を人にしたことがない。

じりりりりり、と、目覚まし時計らしい無機質な鳴り方をする。
何処から音が、というより、それ全体が鳴っているようだ。
音が響いている、というより、物が響いている。
有り得ないのだろうが、普通鳴るわけがないものが鳴るんだから、あるかもしれない。

音を消すには、それに触れればいい。常に鳴り続けると、おかしくなりそうだ。
家やら家電量販店やらに居なければ、近隣の家から漏れる音しか聞こえなかったから、
僕は毎日外で遊んだ。


歳を負う毎に、それは増えていった。
六歳の誕生日の日、突然冷蔵庫が鳴った。大きいからか、音の大きさは増していた。
七歳になると本棚が鳴り、八歳で家中のカーテンレール、九歳ではアイロン台だ。

毎年、今年は増えないのでは、と期待をして、撃沈している。

何故か朝一斉に、叫ぶように鳴るのだ。

十二になると、家が鳴っているように感じるほど、沢山の家具が鳴っていた。
気が狂いそうだった。
人に話そうとした。でも狂っていると思われる、どうせ信じてくれないさ、と思うと駄目だった。
根暗なのだ。

 


「あんた、いつも何してんの」

カーテンレールにひとつひとつ触れている僕に、寝呆け眼の母が声をかけた。

今起きたのだ、寝室のある二階から降りてきた。
出来るだけ朝早くに起きて、家族に怪しまれないように音を止めていたのだが、ばれていた?

「何もしてないよ?」
「ばーか。気付いてないわけないじゃん」

貴女が七年前に嘘でかわした事ですよ、今から興味を持たれても。
僕がよく体を壊すのを責め、偏頭痛を訴える度に哀れむような眼を向けていたくせに。

「忘れたの?」
「何を」
「俺はさ、おかしいんだよ」

口だけで笑って言った。言ってしまえばいい。自分から言えば、楽なのだ。

「なあに気取ちゃってんのよ」

母は、笑いながら言った。

「ヤッ君もそういう年頃かあ」

さも愛しそうな言い方に、酷く苛つく。

「だからさ、忘れてるよな」
「何よさっきから」

僕が黙ると、寒く澄んだ室内に、ヒーターの起動音だけが響いた。
何だか悔しくて、堪らなかった。

「ジャー、冷蔵庫、本棚、カーテンレール、アイロン台、ソファー、換気扇。鳴るんだよ。
 聞こえないか?」

ひとつずつ、指差しながら言ってやる。首を動かすと、後頭部がずきりと痛む。
最後の言葉に、母は唖然とした。

「落ち着いて言って」

おかしくなったと思われている。いかにも狂った仕草だったろう。

「落ち着いてるよ。七年目なら慣れた」
「‥‥鳴る?」

そりゃあ、わかんないよなあ。
こんなにもけたたましく、家が鳴り響くだなんて。


僕は十数年間、人にその話をしたことはない。

 


これはいかん。

「家具だけじゃねえのかよ」

鳴り響くのは、僕以外の人だった。

じりりりりりりり。
世界中で鳴り響く音。

起きてんのにさ、止めてよ。
もう起こされる歳じゃないよ。

会社に向かう。
そこらかしこで、ベルの音がする。

満員電車は、地獄だった。


「止めりゃあいいんだろう」

誰ともなく、小さく呟く。

 


僕は、痴漢容疑で逮捕された。