地獄の回想録

2006年からやっているブログの記事を機械的に貼り付けました。

2011/02/04 10:17

『一生』


「お寒うございますね」
 男は俺の直ぐ左側に居た。左側に立たれるというのは何となくいい心地がしなかったが、俺はちゃんとその見知らぬ男の呟きに答えてやる。
「そうですね」
 ちらりと横目で見ても、やはり俺はその男に見覚えがなかった。黒の色褪せたコートを着て、眼鏡をかけ、髪を短く刈っている。背は高くなく、ずんぐりとした印象だった。
 ここの信号は赤になってしまえば中々変わらない。通勤時間であれば人だかりでいっぱいになる
 横断歩道だが、それを少し過ぎた陽の高い今、信号待ちは俺と男だけである。
 雪溶けで湿った地面から冷たい風が立ちのぼり、背筋が震えた。
「袖擦りあうも他生の縁。こうして共にここで寒さを共有しているのも、何処かに一生の縁くらいはあったのやも知れませぬ」
 男は笑った、ような気がした。男の見た目に反した、涼やかな笑い方だった。
「そうですかね?」
「そういうものでございますよ」
 妙な喋り方だ。話の内容よりも、そちらの方が気になってしまう。俺は小さく、生返事をする。


 車が目の前を通り抜けていく。信号は変わらない。何も変わっていない。
 このまま変わらないのかもしれない。視線を感じる、気がする。
「あ、ほら」


 男が嬉々として腕を伸ばす。人差し指が俺の視線の先を向いている。信号は赤だ。
「変わりますよ」
 男は少女のようだった。
「変わりますか」
「変わりましょ。ほら、ほら」
 車が1台通って、信号はぱっと青になった。ほら、と男はもう1度言った。


「変わりましたね」
 俺が言うよりも早く、男は先を歩き出した。賑やかな歩き方だった。右足を前に出す度に、上半身が右側に傾く。脚でも悪くしているのだろうか。そんな歩き方なのに、やたらと早かった。
 俺が遅れているのに気付くと、振り返りもせずに歩幅を狭めて俺の左に並んだ。
 このまま行ってしまうなら行ってしまえと思っていたので、内心で面倒だと舌を打つ。
 俺は度量の狭い奴だと自覚している。
「いずこに行かれますの」
「大学です」
 勝手に、俺と同じ学生だと思っていた。男はうんとも、俺もですとも言わなかった。
 ただ、そうですか、と嬉しそうに答えた。打っても弾かれたような返答だ。
「あなたは」
「妾でございますか?妾のような卑賤のものの身の上など、お耳にしてはこんな朝から嫌な気分になるだけでございますよ」
 男はころころ笑う。こいつは誰なのだろう。何度見てもその横顔は見知らぬ、男である。
「卑賤だなんて、そんな」
「それに長くなりますよ。きっと話しているマに着いてしまう」
「じゃ、落ちだけ話したらどうです」
 長くなる、と言われた時、俺は決まってこう言う。冗談のつもりである。なのに男はけろりと承諾した。
「そうですね」


 男の腕が伸ばされる。俺の視線の先を指す。
「変わりますよ」
 男は言う。いや、もう男ではない。お梶に結った女である。黒の江戸褄の簡素な柄が、そこらの娼妓ではないと訴える。彼女は反逆者だった。俺はただ、白い腕が黒に映えていると思った。
「変わりますよ」
 しかし何も変わらなかった。冬空は高いままで俺たちを見下ろしている。何が、変わろうものか。
「変わるものか」
「ええ、変わりますとも」
 旦那さま、とやいは笑う。俺はその先を見詰め続ける。
「あ」
 空が徐々に暗くなっていく。と思えば、瞬間、空は夜のように黒く染まった。
「ほらほら」
 やいは俺を向いて子供じみて笑う。
「これは恐ろしい」
 日蝕だな、と俺は思った。でも俺は本心から恐ろしいと思った。天気予報で日蝕を予告する習慣はなかった。俺にはその予告が、やいの外法に見えた。
 だってまるでやいが空を変えたようだったから。


「変わりましたね」
 俺が言うよりも早く、男は先を歩き出した。背筋の伸びた綺麗な足取りだった。
 男は振り返ることもなく足早に俺と同じ大学の門をくぐっていった。