地獄の回想録

2006年からやっているブログの記事を機械的に貼り付けました。

2011/10/13 11:00

『今際の際』

 病院は苦手だった。あの眩しすぎる光の中で死ぬのだけは嫌だと、多分分娩室の中から、思っていた。
 目の前で閃いたそれの光に目が眩んで、俺は一瞬の判断を誤った。結果、俺の肉体は再生能力を失い、朽ちていくことになる。しかし精神は朽ちるどころか、あり余る暇の所為で冴えに冴えまくっている。
 俺は今、俺の肉体の眠る横に座って全身にぶち込まれていく液体やら酸素やらのことを思っている。
 時折妻の作った食事でさえ「俺は何でこんな異物を飲み込んでいるんだ」と不安になることがあった。グミだのタブレットだのコーラだの、気味の悪い人工物を快い気持ちで飲み食いすることはなかった。それらは決して不味くはなかった。ただその味以上に、己に対するじっとりとした嫌悪が、口内を支配するのだった。それでも口の方は恥ずかしげもなく分別も知らずに異物を受け入れる。気品も思慮もなく噛み砕く歯と、そこから少しでも快楽を得ようと働く舌。唾液はねっとりと甘く、下手をすれば噎せる。
 だが今、口内にその不快な感覚はない。栄養は直に血管を流れて、荒廃に抗う死に損ないの細胞を助ける。しかしこの補給線も、いずれ途絶える。しかし籠城兵たちは自決という道を知らないのだった。
 妻は成人した息子を伴って、毎日見舞いに来る。息子は日によって来ないこともあったが、以前に比べて格段に顔を合わす機会が増えた。ふたりは特に、俺に対して情けをかけるでも、恨み言を放つでもなく、俺の寝ているのを見届けると、少しだけ頭を下げて帰っていく。だから俺は息子が無事に就職先にありつけたのかどうかも知らない。
 沈辺には花が一輪活けられている。妻が先日持ってきた、彼岸花だ。おいおい入院患者に彼岸花かよ、と看護師だけでなく俺本人もつっこんだが、よく考えてみればそれは唯一の、俺の好きな花なのであった。
 曼珠沙華。鮮烈な赤の花弁は、中心に赤子でも隠しているかのように、ふんわりと丸い。緑の茎は一切の葉を省いて、真っ直ぐに立つ。俺は、生来の体質のお陰で実際の光景を見たことはないが、これがお彼岸の木洩れ日の中で、群れになって咲き誇っているのだ。非の打ちようもないくらいに美しく、それでいてちょっと忌まれているのもいい。根に毒があるというのもいい。それは縁起の善し悪しを無視した次元で、俺に供えられたのだ。俺が熱っぽく語った言葉を、妻は覚えていたのだ。俺が酢の物を食えないことはとうとう覚えなかった癖に。
 クーラーの風で、彼岸花はじわじわ渇いていく。明日にはもう枯れてしまうだろう。あいつも非道いことをする。死に逝く俺の道連れに、愛する彼岸花を選ぶだなんて。
「失礼しまあす」
 見慣れた看護師が入ってきた。若く、それなりに美人だ。だがお節介が過ぎて疎まれそうな、保育士めいたところがある。それが天職じゃないか、と俺は彼女に言いたい。
「愈々今日ですね」
 看護師は独り言を呟きながら、手元の板に何かを書き込んでいる。
「今日だな」
「奥さまも息子さんも立ち会われるそうです」
「そうか」
「最期に何か、言い残したことはありませんか」
一瞬だけぽかんとして、苦笑する。何という独り言だ。問題発言だ。こいつは馬鹿だ。
「そうだな。君はナースよりも子供相手の仕事のが向いてる。それを伝えたいな」
「私にじゃあありませんよお。ご家族とか、愛人とか、居るでしょう?」
「愛人なんか」
 じゃない。
 俺は弾かれたように振り返る。俺の肉体はベッドの上に縛り付けられている。今の俺は超自然のもので、死に向かう者への、ボーナスステージのような時間を過ごしているのではないのか。
「き、君、え」
「キミエ?愛人の方ですか?」
「ち、違」
「血なんか出てませんよお。もうかさぶたです。落ち着いて話しましょうねえ」
 はい深呼吸、と促され、言われるがまま一度やってやる。何だか馬鹿にされているようで尺だが、それで結構落ち着いた。間違いない。こいつは俺と話しているのだ。
「はい、では御遺言をどうぞ」
「えっ」
 落ち着いたところで、漸く状況が理解出来たくらいだ。この上、いきなり御遺言をどうぞ、などとぬかしやがる。
 小娘、お前は若いから知らんのかもわからないが、遺言というのは死ぬ間際に後継ぎは誰それに、などとほざいて成立するものではないのだ。聞いた人間が嘘をつくかもしれない。その所為で、後継者同士が骨肉の争いをしてしまうかもしれない。だから遺言なんて、ぽっと出して済むものではないのだよ。
「君、ナースだろう」
「はい。看護師二年目です」
「そんなことはいい。あのな、ナースの君に遺言ほざいても、法的には認められないんだ。書士か?医者でもいいんだったか。呼んでくれないか」
「えええ。そんなもの呼んでる時間ありませんよ。今日だって言ったじゃないですか。今日で終わりなんですよ、あなたは」
 知っている、と叫び散らしたくなる。知っている。よくわかっている。でも俺は最期の最後を考えるのも嫌で、平静な心のままで、逝こうと思っていたんだ。俺の最後を乱してくれるな。
「何て顔してるんですかあ」
 ナースの間抜けな声で眉間のシワに気付く。いかん。
「安らかな顔してるだろうが」
「酷い顔してますよ。こわあい」
「うるさい!」
 ナースの顔はぴくりとも動かず、驚いた様子も、怯えた表情もない。それはそうか。俺の肉体は眠り続けている。真っ昼間から幽霊に怒鳴り付けられたって、怖い筈もないのだ。
「‥‥すまん」
 何だか恥ずかしくなって、謝る。
「いいえ。心中察しますよお。死ぬのは嫌ですよね。皆さん凄く動揺されますもの」
「皆さん‥‥ということは、俺の他にも‥‥幽体離脱というか、こんな状態に」
「ええ。死期が確定したら、大概なりますよ。ほらあ、幽霊って未練が残ってるから出るっていうじゃないですか。でも未練の残ってない人なんてそう居ませんよ。だから皆さん出てきちゃうんですねえ。にょこっとねえ」
 タケノコか何かのように言わないでほしい。こいつには人の尊厳というものを解する気持ちはないらしい。
「だから、その未練というものを解決して頂こうと、私が居るのですよ。この為に、私は居るのです」
「君は所謂、あれか。霊能力者というやつか」
「いいえ。看護師二年目です」
「‥‥とにかく、何だ。君に遺言を今ここで言っておけば、家族なんかに伝えてくれるのか」
「内容によりますけどね。女子高生のパンツが欲しいだなんてお伝えしたら、ご家族卒倒しちゃうでしょう」
 もしかして前例でもあるのだろうか。幽体でも欲情したりするんだろうか。
「何と言えばいいんですかねえ。遺言といっても、やっぱり死に逝く人の最後の望みを叶えることが目的なのですね。だからパンツが欲しければ私はこっそり調達して、差し上げますし」
 本当に女子高生の下着なら犯罪なんじゃないか。盗品か売り物か知らんが。
「自分を殺した犯人顔を伝えたいなら、私が拙い画力で似顔絵を作成致します。復讐なんかもいいですけどね。俺を殺した奴を殺してくれえ、って」
 そうか。それは有意義な今際の際の使用法だ。それに証拠能力があるのか甚だ不安だが、遺して逝く方も遺された方も、大きな希望が持てる。医療従事者が復讐なんか、冗談じゃないから笑わない。
「まあ、今後そんなこともあるかな、と期待してるんですけど。サトウさんはあれですよね。交通事故ですからそんなことないですよね」
 つまらなそうに口唇を突き出す。不謹慎極まりない。自分のことなのに、怒りも悲しみも浮かばないのが不思議だ。これが「通り越して呆れ」という感情なのか。
「そうだよ。残念だったな」
「光が苦手だったそうですね。例のお車のフロントガラスにも遮光シートが貼ってあったとか」
「ああ。陽の下だと、まともに目も開けないくらいだった。だから病院も苦手なんだよ。明るくて」
「今は大丈夫みたいですね」
「‥‥彼岸花、初めて見たんだ」
しみじみと、花瓶に目を遣る。赤い。彼岸の頃の陽はいつも眩しかった。俺の視界はいつも暗く黒く澱んでいた。赤い。目に痛いくらいに、赤い。
「三途の川って、彼岸花いっぱい咲いてるのかなあ」
「どうだろうな」
 俺はこれから、そんな幻想的な空間に飛んでいってしまうのだろうか。あの花に囲まれて、死んでいくのか。穏やかな気分で逝ける気がする。
「聞いた話ですけど、三途の川シビアらしいですから、頑張って下さいねえ」
 何処で聞いた。何故知っているのだ。知っているのか。知っているのだろうな。そうか、と呟く。
「頑張るよ」
 白衣の天使とは、まさに彼女のことではないか。
「それで、遺言の方はどうします?何かいいの思い付きましたあ?」
「そうだな」
 別に女子高生のパンツなんか欲しくないし、俺を殺したのは光であって、犯人を告発することも出来ない。そうなれば対向車線を走っていた、ヘッドライトをビームに改造した若者たちになるのだろうが、俺は別に彼らを恨んでいるわけではない。遮光シートがほんの少しはがれていた。夜だからサングラスをかけていなかった。俺の迂濶と偶然が重なって、死んだのだ。人を恨むのは筋違いというものだ。
「息子が就職できたのがどうか、知りたいな」
「されましたよ。おめでとうございます」
 拍子抜けするほどあっさりと、俺の未練は解消された。
「そうか」
 つい、苦笑いが浮かんだ。もしかして、ウチにだろうか。もっと名企業に行く、と息巻いていたが、この御時世そううまいこともいくまい。それ見たか、と笑ってやりたい。
「ちなみに何処に?」
「Y社です。大手ですねえ。コネがあったとか、息子さん謙遜してましたよお。凄いですねえ。私もコネなんかあったら、看護師じゃなくて捜一の刑事さんとか、私立探偵とかやったのになあ。いいなあ。ねえ、サトウさん」
 サトウさん?
 ナースの顔が空間ごとぐにゃりと歪んだ。
「ど」
 どういうことだ。何故息子が、Y社に就くんだ。
「ど?」
「何で」
 何でY社があいつを雇うんだ。あいつの父親は俺だ。その事実が揺るがない限り、こんなことはあり得ない。あってはならない。
「サ‥‥サトウ商事は、どうなったんだ」
 ナースは事もなげに微笑む。
「サトウさんが遺した会社ですねえ。小耳に挟んだんですけど、Y社が、何て言うんですかこういうの。合併?乗っ取り?」
 知らず、息を飲む。どうして。俺は、俺たちは、あれほど合併に抗ってきたのに、簡単に屈服するのか。腰抜けめ。腰抜け。どうして戦わないのだ。天下のサトウだぞ。あんなでかいだけ、名だけの会社に乗っ取られて、悔しくないのか。
「サトウさん?」
「俺は身ひとつで会社を興したんだ。技術なら何処にも負けないんだ」
「でも資金繰りはうまくいってなかったみたいですねえ」
「あと少しだったんだ。でかい仕事が入るところだった。もう少しだったんだよ。それをあいつらもわかっていた筈なのに、何で」
「未練」
 何が未練だ。こんなもの未練でも何でもない。今突然沸き上がっただけの、怒りだ。俺は信じて、疑うこともなかった。
 社員たちの力を、気概を、信じていたのだ。
「哀れなサトウさん」
「うるさい。あいつらを呼んでこい。何処に居るのか知らんが、俺の死に顔を見せてやれ。思い直すだろう、もう一度立つと」
「皆さんは今頃、Y社でお仕事中でしょう」
 ナースは感情のない笑顔を小さく傾げて、
「社員の方が、一度でも、お見舞いに来られたことがありますか?」
 喉の奥から、異物が込み上げてくる。俺の肉体は眠っている。胃液であろう筈もない。
「ああ」
 絞め付けられる首から、やっとのことで、甲高い嗚咽を吐き出す。Y社め。腰抜けの社員どもめ。愚かな息子め。裏切り者。俺が死んだ途端に。
 俺が死んだ途端に。
「俺は」
 憎むべきひとりひとりの顔が脳裡をよぎる。サングラスを通した暗い世界で、皆一様に目を細め、眉を寄せて眩しそうな顔をしている。
「俺は、誰に殺されたんだ」
 あれは眩しいわけではなかったのだ。
「奥さんですよ」
 食卓の向こうの妻とて、同じ顔をしているではないか。
 俺の世界はこんなに明らかだったのだと初めて知った。もっと不明瞭なものだと思っていた。何もかも、余りにも明らか。
「哀れなサトウさん」
 白い部屋には一点の影もなく、ナースばかりがただ黒く、
「私は何でも承りますけど」
 三日月の目をした死神はナースの姿で笑う。
「その為に、私は居るんですからねえ」
 鮮烈な赤が網膜を焼く。俺はゆっくりと目を閉じた。