地獄の回想録

2006年からやっているブログの記事を機械的に貼り付けました。

2007/09/14 23:35

『ヘッドスタート』

 

【初日】


探偵小説を鞄にしまい、探偵事務所の窓を見上げたのは、既に1時間前。
「‥‥あかない」
そう呟いたのも、またその時。
私が予約したのは1時間前の筈で、こんなことなら会社を早退しなくてもよかったのだ。
帰ろうか、と思うも、早退なんか出来る日は限られている。勤務時間は無駄に使えない。
探偵が給料を払ってくれるとでもいうのだろうか?
しょうがなく、探偵事務所の扉の前で探偵小説を読み始め、更に40分。推理は佳境に入り、
もう私でも犯人がわかってきた頃だ。多分間違えているが。
後1頁。探偵が全員の顔を見回し、静寂を壊さぬ静かな声で言う。
『犯人は』「お客様‥‥ですかあ?」
えっ、と声を上げつつ顔を上げると、赤がかったロングヘアーを緩やかに巻いた、
私服姿の若い女が、事務所の扉から上半身だけを覗かせて自信なさ気に
私の顔を見下ろしていた。その服装や表情から、ハタチそこそこ-いや、高校生にも見える。
「ええ、まあ」
「ひゃあ!すみません。お待たせしてしまいましたよね」
どうやら、私が来ることを忘れていたわけではないようだ。ならば何故。
扉に通され、1メートル小のカウンターの上で名前と電話番号を書いていく。
すると、じわじわと待たされたことに対する怒りが沸いてきた。
「はい、有難うございまあす」
携帯電話の番号を書いた所で紙を取り上げた女に、少々刺を持たせた口調で聞く。
「予約した時間は2時間近く前ですよね。私がそんなに多忙な身ではないからいいものを、
客にそう、適当な態度は」
「実はですねえ、事情がありまして」
急にのんびりとした調子で話を遮られ、私は眉間に皺を寄せた。昔からの癖だ。
「うちの扉、開けるコツがありましてえ。お客様が来たら開けなくちゃいけないんですけど、
まさかお客様が時間通りにお出でになるとは思わず」
「は?」
「ええ、すみません。あたしの計算不足でした」
本気で謝っているようだが、言っていることが理解出来ない。つまり、今までここを訪れた
客の中に、時間通りに来た者は居なかったのか?
私は特に質問を追うこともなく、眉を寄せたまま女を見つめた。
「先生の分も謝らせて頂きます。誠に申し訳ありませんでした!」
「い、いえ。もういいんです。顔を上げて下さい」
素直、というか何というか。私はそういうタイプの人間が苦手である。
私の言葉に前を向いた女は、笑みをたたえていた。
「有難うございます!では、こちらへどうぞお!」
―天然なのか、謀略家なのか。とにかく、得な性格であることは間違いない。
奥の部屋に通されると、座って待っていて下さい、と指示され、私は対面式になった
ひとり掛けのソファーに腰を掛けた。手前には脱ぎ散らかしたかのようなコートが
置いてあったので、奥に座った。女は、私の分のお茶を運ぶと隣の部屋に消えた。
探偵事務所というのは、ドラマや小説のイメージを忘れることが出来ない。夕日がよく似合う、
全体的にくすんだ感じの部屋を一瞬でも想像してしまった私は、小さく自嘲の笑みを
浮かべた。別に会社にこういう部屋があってもおかしくないな、と思う。
かつん、と靴音がした。
先程女性が入っていった扉は、特に音もなく開いたのでびっくりすることはなかったが、
顔を興味津々に動かしていたので、扉から入ってきた人物を落ち着いて見るまで少しばかり
時間が要った。
きっちりと斜めに切り分けられた短髪に、全てのボタンが留められたワイシャツ。
ポケットに眼鏡が引っ掛けられている。中年の男だ。
世間一般に言われる美形では決してないが、目だけは切れ長できりりとしている。
探偵だろうか。
私が辞儀をすると、男は大きな口を小さく横に伸ばして笑い、そのまま口を開いた。
犯罪捜査のための通信傍受に関する法律って、反対ですか?」
そして、唐突に男は言った。私は呆気に取られて、首を傾げる。わけがわからない。
男は、鼻で笑ってから悲しげに叫んだ。
「‥‥やっぱり、そうか」
頭を抱えて髪を掻きむしり、事務用の椅子に座り込み、何か唸る。そして、振り向いた体勢の
私を見つめる。その目に宿るのは、狂気だ。初対面の私に何を期待することがあるんだ。
-帰ろう!
暫く男と睨み合っていたが、今日ここに来てから何度目とも知らない決意が、再燃した。
きっと彼が、ここの探偵なのだ。
こんな人に何が依頼出来るだろうか。出会って第一声があれって。小説世界の探偵は、
一概に、というわけではないが、変人が多いものだ。彼もその類なのだろうか。
「あ、あの、すみません。私、今日は帰らせて頂きます」
鞄を膝に置いて立ち上がるが、その肩を突然押さえられた。
首だけで振り返る。と、先程の女が、白い顔に満面の笑みを浮かべて私の肩に両手を
乗せていた。
「駄目ですよお。今に先生はあなたの悩みを解決してくれますから」
少し舌足らずな喋りで、女は言う。苦笑せざるを得ない。
「2時間待たせといてそれですか」
「すみませんって言ったじゃないですか」
「いえ、もう結構です。何ですか何とかかんとかの傍受って」
犯罪捜査のための通信傍受に関する法律です。つまりは法で認められた盗聴」
探偵が重たい声で口を挟む。
「そんなこと聞いてません」
無理矢理立ち上がると、何故か女も探偵も凍り付いたように私の顔を見つめていた。
まるで不倫を親族の席で暴露したかのような空気だ。
大きな本棚のガラスは既に西陽を映していて、その上から申し訳程度に私の顔が
映り込んでいる。眉間に皺を寄せ、般若の如き様相をした私が。
―無愛想な子だから無理でしょう。
―何で怒ってるのかな?
―だって全然、楽しそうじゃないじゃん。
私だって、好きでこんな風に生まれてきたわけじゃない。
私だって、好きでこんな顔をするわけじゃない。
好き勝手生きろと説いた両親は、いつでも好き勝手に笑っていた。
「いや」
探偵は、銀縁の大きな眼鏡をポケットから取った。
「あなた」
「は?」
そして、掛けながら私の間抜け面を見据える。
すると、細い目を限界まで開いて息を大きく吸い込んだ。びっくりしたようだが、
びっくりしたのは私の方だ。
探偵は、眼鏡を外してハンカチで拭いてから掛け直し、今度は思い切り嬉しそうに笑った。
「ははあ‥‥女性だったんですね!」
「‥‥はあ?」
呆れた。今頃わかったのか。
私は小さい頃から男の子に間違えられてきた。服装も両親の性差のない教育からか、
女の子らしいのを好まなかったし、元来男顔だ。
しかし、この歳になってまで。そしてこの低身長で。
「観察力不足は探偵に於いて致命的だと思いますが」
「いいや、もうわかりました。あなたは美人です!」
ひとつずつまともに突っ込んでいたら、ラチが明かなそうだ。
私は、取り敢えず溜め息をひとつついて言った。
「‥‥帰ります」
「ちょ、ま、待ってくださいよ!饗子ちゃん、お客様を逃がすな!」
饗子というのは女の名前らしい。ラジャー、と背後で元気な声がした。
扉から遠い席に着いたのが間違いだった。私は饗子に扉をふさがれ、また溜め息をつく。
「訴えますよ」
「そう怖い顔しないで下さいよお。先生は有能です!」
これまた、いけしゃあしゃあと言ってくれるものだ。何処をどう見たら有能に見えるのか、
説得力のある説明をしてほしい。
「饗子ちゃんは私を買い被りすぎだよお」
明らかに照れている。勝手にやっていてほしい。
「とにかく」
探偵は、今更格好付けるかのように咳払いをした。
「お話だけでも聞かせて頂けませんかねえ‥‥お客様」
私は、何度目ともわからぬ溜め息をついた。ソファーに乱暴に座り、ちょうどぬるくなった
煎茶を飲み干す。
諦めよう。このままでは、事は1ミリも進まない。
「‥‥矢波です」
「そうですか。私はここの所長である北枕です。そっちは助手の卑田饗子ちゃん」
いやしだ、とは。ふたり揃って不安な名字だ。
「癒し系、の卑田ちゃんと覚えてあげて下さい。お客様」
いや、その紹介は要らない。しかも名前を覚えていないのか。そうですか、の切り返しが
大体おかしいのだ。
「私北枕真忌郎、今年で37を迎えます。しかし待てども追えども恋人は出来ず、
最早開き直っている次第で」
私が軽く探偵を睨むと、探偵は笑顔を引きつらせて目をぱちくりさせた。
「そ、それで‥‥ご相談というのは」
「私の姉についてなのですが」
私には、6歳差の姉が居る。所謂結婚適齢期の終わりを目前に控えた彼女は、
残念ながら結婚やら恋愛やらに興味がない私-や、開き直っている目の前の男-と違い、
焦っていた。
「姉には、高校時代から付き合ってきた男性が居たんです」
「ほほお」
北枕は、妙な相槌を打った。
「姉は、その男性と婚約する気でいました」
「婚約ねえ」
「ですが、つい先月‥‥急に、彼の方が姉を振って」
その日、姉は私のマンションに来て、一晩中泣いていた。
私は、そんなこともあるだろう、と無感動に姉を慰め続けた。
私が中学生の時に姉は家出をして、実家に帰ってきたことはないが、私と連絡は
取り合っていた。まだ若かった姉が宿り木にしたのは、ずっとその彼の部屋だった。
「そんなこともありますよねえ。そんなに長く接してきたら」
「私もそう思いました。でも、その直ぐ‥‥メールを見れば何日だかわかりますが、
とにかく直ぐに、全く見知らぬ男性が、姉に迫ってきたのです」
その男は、姉よりふたつ年上で、中々の外見をしていた。
職業は『地方局テレビのプロデューサー』。私がその番組名を告げると、北枕は
関心したように小さく何度も頷いた。
「ああ、あのつまんない番組」
「先生!」
北枕の呟きに、饗子が突っ込む。饗子の方が常識はある。
「おや、失礼」
「いえ、いいんです。私も面白いとは思えません。低予算の中での限界かも知れませんが、
 ケーブルテレビだって面白いものは沢山ありますし。視聴者を探す方が難しいですよ、
 あの番組は」
私は、苦笑しながら喋った。
しかしその男は、局の中でも評判が悪いらしい。人格、番組を作るセンス、外見を除けば
何をあげてもよくはない。アウトサイダーは嫌われるというが、彼の周りは何故彼が
プロデューサーになったのか、という部分にとことん苦しんでいるらしい。
だから人も着いてこない。彼の感性に少しでも期待したスタッフは徐々に覇気を失い、
1日でも早い打ち切りを待っている所だ。それでも、中々終わらないのには
スポンサーという事情がある。
しかし、もう終わりがそう遠くないのは紛れもない事実だ。
「そんな男が、どうしてお姉さんに近付いたのでしょうね」
「恋じゃないんですかあ?」
饗子が、パックの苺牛乳をストローで飲みながら聞く。
「恋ならいいんですけどね」
カフェでばったり一目惚れ、しかもやけに気が合うなんて運命的な出会いは、
 失恋のショックを引きずる姉には甘い蜜のような話だった。
「一目惚れでしょ?タイプだったんですよお」
「なら、どうして他の女性と一緒にホテルに入っていくのでしょう?」
饗子と北枕は、無表情で固まった。苺牛乳を吸う微かな音は聞こえる。
そして、十分な間を置いて北枕は叫んだ。
「浮気調査ですね!」
「え」
「浮気調査ならお任せ下さい!当北枕探偵事務所が最も得意とするのは浮気調査です!」
何だそれは。得意とかがあるのか。
「どちらかといえば、素行調査をお願いしたいのですが」
「わかりました。浮気調査に素行調査ですね。密室の謎を解いてくれ、とかでなければ
 いくらでも引き受けましょう!」
知っている。現実の探偵はそういうものだ。
しかし、私の鞄の中の探偵は、今まさに密室殺人の犯人の名前を上げんとしているのである。
昔から推理小説を愛読している私にとっては、少し悲しくもあった。
「して、その男の名前は?」
「浜岸洋太郎です」


【中日 前編】


私が北枕探偵事務所を訪れてから、1日が経った。
『今お客様全員にプレゼントしている』らしい怪しい羊のぬいぐるみと、携帯電話の
電話帳の「会社」に登録された探偵の連絡先と、何故か「友達」に登録してくれと
せがまれた助手の連絡先を持ち帰り、私は不安の残るまま帰路に着いたのだった。
―あの人に依頼してよかったのだろうか。
話すだけだったのに、結局こんなことになってしまった。何となく諦めた時点で予想は
してみたものの、後悔という2文字は休みなく私を苛み続けた。
車で出勤をすると、会社が異様に暗い。駐車場には入れず、路上駐車をして下りる。
自動ドアーは隙間なく閉まっていた。
そういえば、今日は勤労感謝の日だ。何て馬鹿なことを。先が思いやられる。
私がこんなことではいけない。将来的には、この会社を支えていかねばならないのだ。
ひとしきり反省をしててから、次の行動を考えた。
帰ってしまってもいいが、ずっと気になっていた雑貨屋があるのだ。休日は会社の近くに
余り来ないのだが、私が帰る頃には閉店してしまっている。小さい店舗に淡い雰囲気が、
私の好みだ。
隣には花屋がある。植物を育てるのは、昔から趣味にしている。ベランダに並べられたら
楽しいかな、と思ってはいるが、実際現在育てているのは数鉢に過ぎない。
ついでに見てこよう。
車に乗り込もうと振り向くと、警察官の制服に緑の腕章を付けた男が、私の車の前に
立っていた。
「ま、待って下さい!」
つい叫んで走り寄ると、交通巡視官は私を見て小さく悲鳴を上げた。
「あなたの」
「そ、そうです。会社が閉まってるから、確認しに‥‥勤労感謝の日だったんですよね」
「はあ」
「ご苦労様です」
私は、年配の巡視官の脇を抜け、車に乗り込んだ。
「これから気を付けてね」
「はい。すみません」
ハンドルを握り、アクセルを踏む。
―あんなにびっくりしなくてもいいじゃないか!
そんなに怖かったか、と思うと、アクセルを踏み込む力が余計に掛かった。
その所為で、気付いたから雑貨屋が遥か背後にあったのである。
反対車線は事故で渋滞。タイミングが悪いことこの上ない。
昼食を何処かで買って帰ろう。家で食べたい気分だが、作る気も起きない。
折角の休みだが-溜め息が自然に漏れる。
ファーストフード店のドライブスルーに車を入れ、私は大きく宣伝されていた新商品を
注文した。何の気なしに店内を覗くと、私服姿の学生が沢山見受けられた。
休日のファーストフード店は、そういうものか。
出る所で路肩の縁石に乗り上げてしまい、溜め息混じりに切り返した。最悪だ。
最悪の祭日だ。何も感謝されていない。
そこからマンションに着くまでは何事もなく、それでも私の眉間の皺は取れなかった。
エレベーターで私の部屋のある階まで昇ると、漸く安心出来た。そう、少し偶然が
重なっただけだ。
角を曲がれば私の部屋―の前に、誰か居る。
長身で茶髪、赤い屋敷のシルエットが書かれたTシャツを着た、にやついた男だ。
誰だかは直ぐにわかった。
浜岸。姉の婚約者だ。何故私の部屋に?
「ああ、千春ちゃん
「‥‥こんにちは」
探偵事務所で手に入れたものがもうひとつあった。家に帰ってから、探偵から着信が
あったのだ。探偵は、助言です、と言ってから話し始めた。
『浜岸さんからあなたに近付いてくるようなことがあったら、家に上げるのは結構ですが、
 極力用心して下さい』
『理由は簡単。奴はお姉さんでもあなたでも構わないんですから‥‥恐らく』
-意味がわからない。
それ以上は確信がない、との理由で教えてはくれなかったが、彼は少しの間に何かを
掴んだのだろうか?
何にしろ、やはり今日が最悪の日であることに変わりはないらしい。
「浜岸さんは、どうしてここに?」
「実は千春ちゃんに相談があってね‥‥秋菜のことなんだけど」
秋菜、とは姉のことだ。
「浜岸さんも、今日はオフなんですか?」
「別にそういうわけじゃない。ただまあ、仕事も一段落着いたからね。
 今しかないかな、と思って」
「メールでも電話でもよかったんですよ?忙しいでしょう、人気番組のプロデューサーなんて」
私は嫌味のつもりで言ったのだが、どうも浜岸はそうはとらなかったらしい。
笑みに、言葉以上の感情が溢れている。
「いや別にね、人気番組って程でもないさ。数取るのも大変だし、スポンサーだって‥‥ねえ」
そこで浜岸は、私を見て更ににやりと笑った。
探偵はいいと言ったが、本当に部屋に上げていいのか?私は悩んだ。
大体、今のご時世、若い女の部屋に盛った浮気男を招くなんて考えられない。
それに、北枕の助言が気になる。
―私と姉に、共通すること?
今は、それを考える時間ではない。どうしてこの場を乗り切ればいいのか、
最善策が思い浮かばない。探偵め。もっとマシな助言を出せってんだ。
「あの‥‥今、部屋が散らかっているんです。昼食がてら下の喫茶店で話しませんか?」
「それが君の昼食だろ?」
浜岸が指差す先は、勿論さっきのファーストフード。
「後で食べます」
「冷めたら不味いよ」
「ナゲットなんで、温めれば」
「その袋、新しく発売したハンバーガー用なんだよね。俺も食べた」
―適当に注文してしまったのが間違いだった。しかししつこい。
浜岸は、私の揚げ足を取るのが楽しいのか、にやにやしながら私を見下ろしている。
「千春ちゃん几帳面っぽいもん。汚いっつっても雑誌出し放し、とかそんなもんだろ。
 いいよ俺は」
私がよくない、と言っているのだ。こういうのがタイプな女が、世の中には居るのだろうか。
「いや、もうそんなもんじゃ済みません。この界隈ではナンバーワンを誇る汚さです」
「そ、そうなの?」
勿論嘘だ。一応、綺麗にはしている。
「ええ。ですから入らない方が無難です」
「いいよお、別に俺は気にしないし」
にやにや。
無理矢理帰してもいいが、後で姉と何かあると嫌だ。潔白なら、仮にも義兄になる男なのだ。
いやいや、ホテルに入っていくのを見たわけだから、潔白というのもない。完全に黒だ。
しかし―ここは探偵の言葉を信じよう。上げてもいいのだ、こいつは。
「じゃあ‥‥汚いですけど」
「悪いね」
矛盾はない筈だ。1度嘘をついたら都合よく曲げずに、貫き通すべきなのだ。
鍵を開け、浜岸を先に通す。余り背後に立たれたくない人間である。
「何だ、やっぱり綺麗じゃん」
浜岸は、天井を舐めるように見渡してから、私の方に向き直った。まだ玄関ではないか。
「そうですか?」
「うん。開けていいよね」
リビングに続く扉のノブに手を掛けながら言った。どうせ私が断らなくても開けるのだろう。
頷くだけ頷くと、浜岸は満足そうに笑った。格好付けているのか。私は浜岸の行動
ひとつひとつに気を配りながらリビングへと進んだ。
「広‥‥へえ。やっぱり秋菜とは趣味が違うんだね」
どうしてこの男が姉と趣味が合うのか、私にはわからない。初対面の時から話が合った、
というのだから、やはり相性はいいのだろうか。
「まあ。姉はもっとファンシーでしょう」
昔からそうだ。姉の部屋はいつでも薄い桃色をしている。
ナチュラルだよねえ、千春ちゃんは‥‥あれ」
部屋に似合わない、怪しげな羊のぬいぐるみを手に取って、浜岸は首を傾げた。
「趣味?」
「え、ええ‥‥まあ」
「高そうだね」
片付けておけばよかった。そんな趣味はない。納得してくれても、何だか複雑だ。
しかし、何処をどう見れば高いのだろう。やはり浜岸は少々感覚がズレている気がする。
「俺ね、最近花育て始めたんだよね」
「へえ、花」
また唐突な話だ。先程から関係のないことばかりで、姉のことで相談、
なんて忘れているかのようだ。
「でもこの前買ったヒヤシンスさ、何か腐っちゃったんだよ」
「水栽培は時期で腐りやすくなりますから。10月終わりくらいから始めた方がいいですよ」
にやついた目が、三日月型に細まった。
-ミスか?もしかしてこれは、話すべきでない情報だったのか?何故だか嫌な予感がした。
「詳しいね、千春ちゃん
「いえ、そこまでじゃ」
浜岸は植物が好きなのだろうか。今まで聞いたことがない。
「初心者にも育てやすいのは何だろうなあ。枯らしちゃうと悲しいしねえ」
私に感想を求めるような喋り方。怪しい―と思うのは、勘繰り過ぎなのだろうか。
ハンバーガー‥‥食べていいですか」
わざと話を逸らすが、浜岸はあくまで紳士的にどうぞ、と言った。遠慮なく食べ始める。
「いつもそんなもの食べてるの?体に悪いよ」
「今日は作る気がしなくって‥‥それよりも」
「俺料理だけは自慢出来るくらいだから、いつか作ってやるよ‥‥あ、ごめん。何?」
姉についての相談事を振ろうとしたのだが、見事に阻まれた。わざとらしいのだが、
元から演技口調といってしまえばそうなのだが。
「いえ‥‥いいです」
「そう?でさ、初心者にも育てやすい花なんだけど」
そんなことをいっても―きちんとマニュアル通りにやれば初心者でも育てられるし、
どうしても育てやすいものというのなら、野性の花を植え替えたらいいと思う。
生き物を育てるのに、楽を求めるものではない。きちんとすればいいのだ。
「‥‥何怖い顔してんの?」
考え込んでいる間に、また顔をしかめていたらしい。焦って笑い、握ったハンバーガーを
テーブルに置く。
「どの花がいいかなあ、って」
「‥‥ふうん」
浜岸は、初めてにやついた顔をつまらなそうに歪めた。
「で?どの花がいいわけ?」
「‥‥私は取り敢えず、自分で最初に育てたのはシシトウでしたね」
野菜のシシトウだ。元から好きだったのもあるが、長く生え続け豊富に成ると聞いた。
確かに、初めて実が付いてからは追うように成り、母は毎日シシトウを焼いて夕食に出した。
皆その内に飽きた。
「シシトウ?へえ」
「沢山出来ますよ」
「やってみるよ」
そういう奴は、大概やらないのだ。
いい加減姉の話を振ろうか。しかし、探偵に依頼している分、下手な回答をして浜岸に
怪しまれてしまったら―私の所為で失敗なんてことになったら嫌だ。
まずは、何事もないかのような会話をすればいい。
「それで浜岸さん。今日はどうしてここに?」
あれ。
「‥‥あ」
しまった!それは出合い頭に聞いたではないか!その答えこそが姉についての相談、
つまり私が先延ばしした話題だ。
何て馬鹿を。朝から頭がどうかしている。
しかし、いくら回避したいとはいえ、話さなければ意味のない会話は終わらない。
注意して喋ればいいのだ。
決意ののちに顔を上げると、ふたり掛けのソファーの真ん中に座る浜岸は、何故かちらちらと
目を逸らした。
「浜岸さん?」
何を言いにくいことがある。さっきと同じことを言えばいいまでだ。
「実は‥‥今日は本当は、千春ちゃんと話をしたかっただけなんだ!」
「はあ?」
しまった。つい口癖が。
だって、余りにも素っ頓狂ではないか。目の前の男を笑わずに居られない。
吹き出されても仕方がないようなことを言ったのだ。
「はあ?って」
しかし、浜岸は多少なりと傷付いたらしい。顔から笑顔が消えた。
「すみません、癖なんです」
弁解にはならないが、笑いを押し殺す方が優先されてしまっている。
「非道いなあ、千春ちゃん。俺は本気なのに」
本気とは、どういうことだ。
「つまり‥‥姉が居るというのに、私と」
「いや、違うよ。秋菜とは別れて、君と付き合いたいって言ってるんだ」
「は?」
また突飛なことで。こんなに移り気の早い男を、誰が信用するだろう。
ハンバーガーが冷めてしまう。
「ふざけてますね?」
「本気だって言ってるじゃないか!」
浜岸が熱く叫ぶ程、私は引く。
「私に全くそういうつもりはありません」
「俺の何が悪いんだ?」
―探偵の調査を混乱させるようなことは。
しかし、あんな探偵信用ならん!何が幽霊だ、阿呆!
「‥‥見ちゃったんですよ。浜岸さんが女の人とホテルに入っていくの」
浜岸の顔色が変わった。まさに、幽霊でも見たかのように。
「え‥‥いや、気の所為だよ。俺に似た誰かさ」
「そのTシャツ、でしたよね。特徴的だったから覚えています。姉と会って、ちょうど2週目の夜」
何かの映画で見た、幽霊のはびこる館。あれ、と思うと、姉の恋人だった。
浜岸の動揺は、手に取るようにわかった。口唇がわなないている。
「同じようなシャツだったのかもしれない」
「正直に言ってくれれば、どうとでも考えられますよ」
「どう‥‥え、付き合ってくれるとか」
私は、出来るだけ快活に笑った。
「ええ。全て‥‥姉に近付いた理由も、私に近付く理由も」
浜岸の美貌が、これ程までというように醜く歪んだ。


【中日 中編】


「近付いた理由?何言ってんだよ。好きになったからに決まってるだろ」
馬鹿だなあ、と思う。既に浮気はバレているのだ。そんな理由が通る筈がない。
私は内心でどきどきしつつ、探偵に悪い、と落ち込んだ。
依頼しておいてこんな踏み込んだことを聞いて、このまま悪い方に事態が進んでしまえば、
いくらあんな探偵でも頭を抱えるだろう。探偵はおかしな奴ではあるが、嫌な奴ではなさそうだ。
私は、感情を込めて首を振った。
「姉がタイプですか?私がタイプですか?」
性格に沿うように、容貌も私と姉では男女のきょうだいに間違われる程の差があった。
「俺は中身を見るんだ」
「別に外見のことだけを言っているわけじゃありません。私と姉じゃ、全然違うでしょう」
今は探偵のことを考えるのはやめよう。浜岸と本気で戦うのだ。
姉の為ではない。我が身の保身の為に。
「ひかれたんだからいいじゃないか」
浜岸は半ば自棄だ。
「正直に話してくれ、って言ったじゃないですか」
初めから私に近付いてくるならわかるのだ。それだったら、こんなことをする十分な理由が
思い立つ。
それとも、姉には本当に一目惚れをしていて、私のことを知り、この状態?可能性は薄くない。
姉は失恋後だったのだ。浜岸がその時期に声を掛けたのは偶然なのだから。
「正直に‥‥ね」
溜め息交じりな浜岸の言葉に、私は強く頷く。
「まあいいや」
長めの前髪を掻き上げて、浜岸は笑う。諦めたような印象を受けた。
「君は頑固そうだからね。このままじゃあ俺と話してもくれなくなりそうだ」
「そうですね。考えておきます」
浜岸はふらりとソファーに座り直す。
「秋菜と会ったのは運命だった。ほんとだよ」
ハンバーガーを頬張りながら、私は浜岸の告白を聞く。演技の掛かった口調は、
どうにも信用するに難く、ドラマを見ているような不思議な気分だ。運命なんてものの存在、
私は信じられない。
「一目見てわかった。フラれたのだな、と」
「凄い観察力ですね」
北枕の代わりに探偵にでもなったらいいのではないか。
浜岸は、自身を嘲るように肩を竦めた。
「疲れてたんだ、俺は。癒しを求めてた。ちょっと話すだけでよかったんだよな、最初は」
倒置法が多いのはアドリブだからか。私は少し冷めた目で無頼を気取る男を見つめる。
「でも、気が合っちまった。秋菜は前の男の話は一切しなかったから、しみったれた
 雰囲気でもなかった。気付いた時には遅い、ベッドの中だよ」
まるで自慢するかのような言い方も、神経を逆なでするだけだ。
「俺は秋菜を愛していた」
それがこの男の誇る愛だというのなら、この世界のラブストーリーは、一体男の目に
どう映るのだろう。
「あのホテルに入ったのは、付き合いみたいなもんだ。仕事が仕事だろう?上役の誘いを
 無下に断るわけにはいかないわけ」
「馬鹿みたい」
私は嘲笑する。
「馬鹿でいいよ」
浜岸はまたにやりと笑う。
「愛ってのは不変じゃない。好みっても不変じゃない。千春ちゃんと会ったら、それこそ
 ずきゅん、ときたね」
心臓を指差して、ゆっくりと言い放った。
「秋菜には悪いけど、別れて君と付き合いたい‥‥正直に話したよ。これでいいんだろ?」
―いいのか?
本当に浜岸は、姉と純粋に付き合っていたのか?
話させた後を考えておくべきだった。言葉に詰まり俯くと、食べかけのハンバーガーが私を
見上げている。
―考えがあったじゃないか。
『初めから私に近付いてくるならわかる』という理由。もう決して、関係のないことには
感じない事実。
「私に近付くのは‥‥スポンサー目当てじゃ、ないんですか?」
矢波家の次女である私に近付く理由。
「え?」
浜岸の口元が引きつる。
姉の家出後、私に向けられた目。
『お前が矢波の後を継ぐんだ』
まだ子供だった私でも、その意味は十分に理解出来た。
父が代表を務める大会社を、任されたのだ。
男女差別をいとみ、母のことを名前でしか呼ばなかった父は、娘である私に一切を
委ねたのだった。
「浜岸さんの番組のスポンサー‥‥うちの社でしょう?」
今度は、浜岸が黙る番だ。
「うちが外れれば、番組は打ち切りですよね?」
父は後1年もせずに、それを実行する決意をしている。
「あなたはそれを阻止したい。だから私に近付く‥‥私の立場を利用する為に。
 自分のプライドの為に」
「違うよ!何言ってんだよ、俺が千春ちゃんを利用するだって?人聞きが悪いぞ」
目が泳いでいる。嘘はつくだけでは使えるものではない。
やはり、そうなのだ。
「姉がうちの会社の人間だと聞いて、驚いたでしょう。既に矢波と交流のない姉は使えない‥‥ だから捨ててしまって、私に近付いた」
実質的に、次期社長となる私に。
「違いますか?」
浜岸は、真顔で頷く。
「違うよ。信じてほしい。俺は純粋に‥‥君と付き合いたいんだ」
私は何を、信じていいのだろう。
目の前の男と付き合う気はさらさらないけれど、浜岸にもう姉に対する愛情がないと
わかった以上、別れるしかない。私が言っても、誰にも信じてはもらえないかもしれないが。
「つまり、姉と別れる、ということですね?」
含みを持たせた口調で言うと、浜岸は強く頷いた。
「‥‥なら今、姉に電話を入れて下さい。私に告白したので君とは別れる、と」
「‥‥わかったよ」
浜岸は、観念したように携帯電話を取り出す。
私は自分の鼓動を耳元で感じながら、小さく深呼吸をする。
「それで付き合ってくれるんだね?」
「いえ」
びっくりしたようなうんざりしたような表情で、浜岸は私を見つめる。
「‥‥スポンサー契約を破棄しても文句を言わない、というのなら」
次は、顔を赤くした。
「何なんだよ‥‥何なんだよ、千春ちゃん!そんなに俺が信じられないのかよ!」
「そんなことが、あなたの言う愛というものに勝るんですか?」
「そんなことって‥‥千春ちゃんは金に苦労したことがないからそんなことが言えるんだよ!」
守りたがっているのは金じゃなくてプライドだということに、浜岸自身は気付いているのだろうか。
「それを利用しようとする人間が何を言うんですか?」
浜岸は、反論しようと口を開いて、そのまま飲み込み俯いた。
勝ったのか、と思ったが、顔を上げた浜岸の目は、濡れたようにぎらぎらしていた。
「頼むよ、千春ちゃん。俺を助けると思ってさ」
にやついた笑顔で、私に迫ってくる。
座りながらも常に一定の距離を保っていた私は、自然に立ち上がって台所へ向かう。
と、突然近付いてきた浜岸によって、腕を掴まれた。
「見捨てるの?」
縋るような、それでいて野獣のような目。
「俺を見捨てるんだ?」
テーブルに私を押し付けるように、寄ってくる。
「‥‥やめろ」
「また、怖い顔するなあ‥‥そういや、さっきも」
何かを思い出したかのように、浜岸が言う。
「折角話合わせてやってんのに、めっちゃつまんなそうだったよな」
-だって全然、楽しそうじゃないじゃん。
笑うことは、昔から下手だった。
誤解を生むことも多々あり、学生時代、友人は私の顔色を窺いながら話していることに、
私は気付いていた。
―それでも。
それでも、だ。
「何だよ、言い返さないのか?」
私は逆に、友人の顔色を窺って無理矢理笑った。
無愛想は中々直らなくて、一時期は人と距離を置いた。
そんな中、父は言った。
『本当に素晴らしい役者の演技は、どんなに脇役でも観客だけは感動出来るんだ』、と。
私が意味を聞くと父は曖昧に誤魔化したが、私にとっては天啓に等しい言葉だった。
その先、私の人との接し方が適当になったことは、決していいことではなかっただろう。
それでも、私の人生観の変化は私の精神の健康にとって、よく作用したのは間違いない。
私はこう解釈した。
「おい、何とか言ってみせろよ!」
主役は私、舞台上は私の人生。素晴らしい脇役が頑張った所で、舞台の上は揺るがない、と。
謝った解釈だと気付いたのは、つい最近だ。
「おい!」
「脇役がうるせえよ!」
一瞬怯んだ浜岸を思い切り突き飛ばし、玄関へ走る。頭を打ったようで、鈍い音がした。
「つっ‥‥くそ!」
この日ばかりは、広い廊下を恨んだ。靴下だと滑り、思い切り走るとこけそうになった。
もう少し、もう少しだ。この角を曲がれば―。
「ひゃあ!」
「お、お姉ちゃん!」
曲がり角の先には、何故か秋菜が居た。
「ど、どうしたの?」
秋菜は、この場にそぐわないへらりとした笑顔を浮かべる。
「暇だから」
「じゃ、じゃあ‥‥ここから逃げて!」
どうでもいいから、そこを通してほしいのだ。浜岸が起き上がる前に。
「え?」
「いいの!大変なの!」
押し出すようにして秋菜を追い出す。とにかく、ここから逃げることを優先させなければ。
秋菜の姿を見て、浜岸が更に逆上しないともない。
「何なのよお」
「いいから下まで下りてて!」
車で逃げるか―鍵は鞄の中だ。誰かが助けてくれれば―。
「や」
背後に立つ、にやついた長身の男は、そっと玄関の鍵を締めた。
驚く間もなく床に押し倒され、浜岸は馬乗りになる。
「何だよ‥‥俺の何がいけないってんだよ。何で俺の番組を潰すんだよ!」
目に涙が溜まっている。痛みからだろう、相当小気味のいい音がしたのだ。
熱くなった手の平が、私の首に回る。
「やめろ、浜岸」
「俺はな、秋菜から千春の趣味とか好きなもんとか、全部聞き出したんだ。話が合った方が
 好感が持てるってもんだろ?」
力はまだ掛かっていないから、苦しいよりも恐ろしい。姉に行ってもらわなければよかった。
「植物だって、ちゃんと育てたさ。腐っちゃったけど」
「あなたの性格が悪いから」
「有難う」
途端に、浜岸の指先に力がこもった。何で挑発なんかしてしまうのだろう。何とかしなければ、
殺されてしまう。
「た‥‥助けて」
玄関の鍵は締まっている。ここはマンションの13階。誰かが来れるわけが、ないのだ。
「無理だよ。何ならお前を殺して、悲しみに明け暮れる矢波大社長に取り付いてもいい。
 なあ、馬鹿だなあ、千春は。何て馬鹿なのかなあ」
―こんな男の手で幕が引かれるなんて-。
脳に酸素が回らず、視界が霞んできた。浜岸のにやついた顔から目を背けることが
出来なくて、仕方なく目をつむった。
こんなことなら-やっぱり私なんか素人が、無茶するべきではなかったのだ。
後悔先に立たず。期待に応えられなくてごめん、皆―。
―暗闇、薄れゆく意識の中で、私はおかしな声を聞いた。遠く、遠くから、響くような声。
―悲鳴?いや、上げるとしたならそれは私だけで。
「げほっ、うえ」
急にむせこんで、喉を押さえる。
-浜岸の手がない。
それ所か、身体に掛かっていた体重もない。
ゆっくりと目を開けると、そこには頭を抱え込む浜岸の姿があった。背後に人の気配を感じ、
反り返るように見上げる。
「囮捜査ですか!素晴らしいです、お客様!」
腕を組む北枕と足を振り上げた饗子が、昨日と変わらぬ姿で並んで立っている。
どうやら、饗子が浜岸を蹴り上げたらしい。
「まあ襲われるかなあ、くらいには考えていましたが、まさか殺されてしまうだなんて、
 ねえ饗子ちゃん‥‥合掌」
「がっしょお」
私が苦しんでいるのをいいことに、ふたりは好き勝手なことを言っている。
「‥‥死んでない」
何よりも助かったことが嬉しくて、私は笑っていた。


【中日 後編】


「くそ、誰なんだよ。誰なんだよお前ら」
浜岸が叫ぶ。
どうやらヒールの先で思い切り蹴飛ばされたらしく、とがったものが刺さったみたいに額から
一筋血が流れていた。
私は倒れ込むように立ち上がり、ふたりの側に立つ。
「浜岸さん」
少しの間を置いて、北枕は言った。
犯罪捜査のための通信傍受に関する法律って、反対ですか?」
「は?」
浜岸は昨日の私のように、呆気に取られた顔をした。
「つまり法律で認められた盗聴。犯罪捜査に関しては認められている盗聴です。
しかしいくら犯罪捜査といえども、人権の蹂躙と反対をする人間も居る」
昨日よりも説明は詳しく、私はやっと理解した気になった。浜岸は相変わらずだ。
「な、何を」
「でも、あなたは反対とは言えない。何故ならあなたこそが犯罪者だからです!」
空気が凍り付いた気がした。
-だから?
「だから何だよ!」
浜岸が突っ込む。私も大賛成だ。
小説の中の名探偵とは全然違う。
北枕は、私の背後で何故か笑う。
「あなたがお客様に手を出さなければ、犯罪者は私です。法律が成立しませんからねえ」
-何?それはつまり、どういうことだ?
饗子が、私の肩に手を置いた。
「あの羊、盗聴器なんですよお」
「なっ」
やけに重みがあると思えば、まさかそんな-いやしかし、犯罪成立イコール盗聴が法で
認められるわけではないではないか。そうだ。結局北枕だって犯罪者ではないか。
「だから浜岸さんを家に上げていいだなんて」
「殺人を阻止したのです。身を守ってあげたのです。お客様はあなた様を訴えても、私共を
訴えることはありません。ねえ、お客様」
何て理由だ。確かにそういう問題は、訴訟を起こさない限りは発覚しないし、
裁かれることはないと思うが。
「訴えましょうか?」
「ちゃんと証拠も抑えました。録音済みです」
無視された。しかし何故北枕は、こんなに嬉しそうなのだろう。
「音源を聞かれたら、何と言うつもりですか?」
犯罪捜査のための通信傍受に関する法律を適用してもらいます」
答えてくれたのはいいが、身勝手だ。公的な捜査の結果として提出するつもりか。
「意味わかんねえことばっかり言ってんじゃねえよ!ああ‥‥くそ」
やはり痛そうな浜岸を見下ろしながら、北枕は饗子の顔を覗いた。
「介抱して差し上げて」
「はあい」
饗子がぱたぱたとサンダルを脱ぎ、浜岸の元へ駆け寄る。
「大丈夫ですかあ?」
「自分がやっといて何だよ‥‥触るなよ」
そう言っておいて、浜岸は饗子に身を預けた。身体に力が入らないのか、
いよいよまずいと思ったのかはわからない。今度こそ、諦めたのかもしれない。
「さて、今から私の推理をお聞き頂きたい」
北枕は、声を張って言った。恐らく浜岸に言ったのだ。
「私は、お客様にあなた様について調査してくれ、と依頼されました。
秋菜さんに近付いた理由を。そこで私がまず調べたのは、お客様のことです」
今度は北枕に肩に手を乗せられた。
「私?」
「ええ。矢波‥‥ええっと、まあいいでしょう。とにかく、饗子ちゃんが
何処かで見たと言うのです。だからパソコンで名前を検索すると、ひとつの会社が
セットで出てきた。そんなに古い歴史はありませんが‥‥ここ十数年の発展は著しく、
製薬市場に波を起こしている‥‥矢波製薬の娘さん、だったんですね」
北枕は、たまに-特に私の名前を言おうとする時に-間を持たせながらも
、聞き苦しくはない喋り方をした。一部は原文をそのまま暗記したようだ。
「何で言ってくれなかったんですか?そんな、社長の娘だなんて」
「か、関係ないと思ったんですよ」
突然話を振られて、つい情けない返答をした。
「関係ない?何ですか、依頼人は情報を全て話してくれないと。お姉さんが実家と縁を
切っているなんて、知りませんでしたからねえ」
背中をばんばんと叩かれむせた。
何を怒られているのだ、私は。
「私はその話‥‥お客様が社長の娘だと知って、考えた。浜岸さんは、所謂逆玉の輿を
狙っているのかなあ、と思ったんです。だから、長女の秋菜さんに近付くのは真っ当だと‥‥
しかし、その事実を知っていたお客様が近付いた理由を聞いてきている。
つまり、お客様は相当な推理力不足なのかと」
「違います」
「知ってます」
むかつく。何だこの男は。
「だから、秋菜さんに何かあるんだなあ、と。どうしても逆玉の輿には乗れなそうな事実が。
ならお客様に目が行くこともあるだろうし、秋菜さんを真に愛しているのなら、
そんなことは妄想‥‥ですよね」
妄想、か。そうだ、浜岸が姉に対する愛を持っているなら、全ては私の下らない妄想に
過ぎないのだ。
「あの‥‥盗聴の為だけに私は殺されかけるまで待たされたんですか?」
犯罪捜査の何たらの、通信傍受の法律?だかの為だけだとは思えない。思いたくない。
「そりゃあ、お客様。玄関の鍵を締められちゃ、助けにもいけませんからね」
「そうだ、どうやってここに入ってきて」
「だから、それこそが答えですよ」
北枕は、背後のドアノブに手を掛け、押し開けた。
そこには、秋菜が立っていた。
「先程そこで会いましてね。合鍵を貸してもらいました」
「あ、秋菜‥‥お前」
浜岸が辛そうに声を上げる。何だか可哀想に思えてきた。
「洋太郎‥‥大丈夫?怪我してる!」
秋菜は外で話を聞いていたわけではないのだろうか。聞いていたなら、態度に少しくらい
変化があってもいい。秋菜がもし、浜岸が愛情を持って接していたと取っても。
秋菜は浜岸の元に駆け寄った。
「大丈夫?ねえ、大丈夫?」
執拗に秋菜は聞く。
声が震えていた。まるで泣いてるみたいに、震えていた。
中で起きた事情-饗子が浜岸を蹴ったこと-を知らなければ、どうしたの、と聞くだろう。
「洋太郎‥‥大丈夫。あなたの番組は終わらせない。洋太郎の夢を壊したりなんかしない。
ごめんね、妹が‥‥ごめん」
全部、聞いていたのだ。
饗子が引くと、飛び付くように浜岸を抱き締める。
「俺は」
「いいの。全部いいの。あたしが守るから‥‥いいの」
私たちは、何と声を掛けるべきかもわからず、ただ呆然とふたりを見下ろしていた。
姉と浜岸の啜り泣く声が、始まりと終わりを唄っているように聞こえた。


【千秋楽】


10日前、ある地方局の情報番組が打ち切られた。
姉と恋人が姿を消してから、既に1週間が経つ。
北枕探偵事務所の窓を見上げるのも久し振りに感じる。今回も少し待たされ、饗子に謝られた。
私と入れ代わりに出ていった中年の女は、私と目が合うとぺこり、と頭を下げた。
「今の人は?」
お茶をテーブルに置きながら、饗子は答える。
「旦那さんの浮気を先生に暴いて欲しいと」
「やっぱり羊、あげたんですか?」
勿論、と頷く。
「‥‥ここの探偵事務所に守秘義務はないんですね」
聞いておいて突っ込むと、饗子は誤魔化しに笑って、奥の部屋に向かって呼び掛けた。
「せんせえ、千春ちゃんがお出でです!」
―いつから私は、ちゃん付けで呼ばれる程に親しくなったのだろう。友達か、私は。
ばたばたという足音の後に、北枕が顔を出した。
「千春ちゃん?って‥‥ああ、お客様」
「‥‥すみませんね、私で」
この人はこの人で、いつになったら名前を覚えるのだろう。探偵としていかがなものか。
やはりワイシャツを上まで止めた北枕は、怠そうに身体を伸ばした。
「また‥‥今日はどうして?」
ソファーに座り込むと同時に聞く。
私は小さく息をついて、北枕の顔を見つめた。
「姉を探してくれ‥‥なんて言いません。失踪したとは両親にも話していないし、
姉も大人ですから」
依頼料を気持ちばかりに出して別れたのはいいが、やはり腑に落ちない部分が多い話では
あった。だからまたここに、戻ってきたのである。
北枕は、私の顔を覗き込むように首を傾げた。
「本当にいいんですか?それで」
私は頷く。
「浜岸さんはどうにしろ、姉にはもう浜岸さんしか居ないんです。姉が幸せなら、
私が何を言おうが」
愛する人と寄り添っていられるなら何も要らない、という人だった。私はその感情を、
ほんの一握りも理解出来ない。
「そうですか」
北枕は、興味がないかのように答えた。
「本当に浜岸さんの意思を気にしない、というのなら、話せることがあります」
「‥‥何ですか」
前に組んだ指をいじりながら、北枕は目を細めた。
「浜岸さんが秋菜さんに近づいた理由‥‥です」
「姉に?いや、それは」
「偶然ではなかった。矢波家の娘であったことは、決して偶然ではないのです」
浜岸は姉のことを、番組のスポンサーの娘だと知っていて近付いたのか。
しかしそれにしても、タイミングがよ過ぎる。
「赤山高哉さん」
北枕は、ぽつりとそれだけを言った。
姉の前の恋人だ。突然姉を振り、姿を消した男。
「赤山さんが、何か」
「主要人物でありながら、舞台に上がる権利を与えられなかった人物です。
まあ赤山さんについてはおいおい話します」
主要人物?今まで名前すら出なかった彼が、どう繋がるというのだ。
「浜岸さんがこの名前を出さなかったのは、秋菜さんを欺き通す為‥‥
つまりあの時点では、あなたを手に掛ける気は更々なかった。浜岸さんは、
まだあなたに助けてもらうつもりでした」
北枕は、ゆっくりと言い放った。話をまとめることが精一杯な私は、相槌を打つことも忘れる。
つまりあの場で真実を語っていたなら、赤山の名前が出ていなければおかしい、ということか。
「浜岸さんがあなたの存在を消そうとしたということは、あなたを諦めて秋菜さんを
取ったということ。浜岸さんは矢波社長に取り付いて、とか言ってましたが‥‥お客様の
葬式を機に秋菜さんを説得して、実家との関係を戻そうと思ったのでしょう‥‥恐らく」
首を絞められたのは、確かに唐突だった。策略があってのことならわかる。
「葬式‥‥嫌なこと言いますね」
確かに私は殺される所だったが、葬式と言われてしまうと縁起でもない。
「気に障りました?じゃあ何と言えば宜しかったでしょう。葬儀?」
「‥‥もういいです」
溜め息をついた。
「そうですか?」
北枕は、首を傾げてから続ける。
「では、次は設定に甘んじた男性、赤山さんについて話しましょうか」
姉には長年交際してきた男が居た、という設定。まるで一個人としての扱われ方ではない彼。
「赤山さんが一体」
「先程私は、秋菜さんと浜岸さんの出会いは偶然ではなかった、と言いました。
しかし、浜岸さんと赤山さんとの出会いは偶然だった」
「じゃあ、浜岸さんは赤山さんと会ったことがあるのですか?」
北枕は首を振る。
「会ったことがある、所ではない。浜岸さんは秋菜さんに会うずっと前に、赤山さんと
出会っているのですから」
何の繋がりもない赤の他人、と思っていた浜岸は、実際は赤山という男で繋がっていた?
「初めて会ったのは、ふたりがまだ園児だった時です」
「は?え、園児?」
今度は、頷いた。そんな昔に?
「そうです。同じ幼稚園だったのですが、仲がいいのはふたりではなくふたりの母親同士。
母親が話している間は遊ぶ、というような関係でした」
よくあることだ。親が気が合っても、子供は苦手だったりする。
「しかし、浜岸さんは引越し。結局ふたりが顔を合わせていたのは2年間ですが、浜岸さんが
就職の為にこちらの方に戻ってきた時、偶然会ったんですね。まだ秋菜さんと付き合っていた 赤山さんと」
「よくわかりましたね。お互いいい大人になっているのに」
「レストランで相席になって、気付いたそうです。浜岸さんの方が」
赤山は童顔だった。もしかしたら、昔からあまり変わっていないのかもしれない。
「それは‥‥偶然ですね」
「ええ、偶然です。そこでふたりは、幼い頃と違い意気投合して話をした。
 浜岸さんは仕事の話を、赤山さんは秋菜さんの話を」
そこで北枕は、お茶を飲んだ。
「まだその時は、浜岸さん絶好調!な時期です。秋菜さんの話を聞いても、
 ふうん、くらいにしか思わなかったでしょうね。その場で自分のスポンサーの娘だと
 聞いていたら反応も違うでしょうが」
「でしょうね」
絶好調なら、随分前の話だろうか。不意にそんなことを思った。実際私は、いつ頃から
絶好調でないのかはわからない。
「その日からふたりは交流を再開‥‥浜岸さんは打ち切りの危機に迫られ、赤山さんは
 秋菜さんが矢波社長の娘であることを話した‥‥そして、考えたんです。秋菜さんに
 近付ければ、コネで打ち切りを免れるかもしれない、と」
「でも、赤山さんが」
私の言葉を、北枕は手で遮った。
「ですから、秋菜さんと親しく付き合えるとするならば、それは恋人です。だから赤山さんが
 邪魔だった‥‥予想は出来ますよね?お客様」
いくら私でも、聞いていればそれくらいはわかる。しかし、まさか姉と浜岸に繋がりが
あったとは。
「ええ‥‥しかし、どうやって」
「赤山さんに女性をけしかけ、写真を撮り‥‥赤山さんは何もなく女性を帰したらしいんですが」
北枕は、突然口元を持ち上げ、目を細めた。
「こんなのを秋菜が見たら悲しむんじゃないかなあ?‥‥と」
-浜岸だ。浜岸の物真似なのだ。
「似てますね」
「有難うございます」
大体、謎は解けてきた。しかし、ここまで聞くと、新たな謎も生まれてくる。
「‥‥今の情報、赤山さんから聞いたんですよね?」
「ええ」
「私は赤山さんの名前を、一切出していません。なのに何で、既に赤山さんのことまで
 調査済みなのですか?」
北枕は小さく唸って、考え込むように顔を伏せた。
「‥‥秋菜さんと接触したのは昨日が最初じゃなかった‥‥とでも言いましょうか」
より一層歯切れの悪くなった北枕に、不信感を覚える。
「いつです」
守秘義務がありますので」
私は、にやりと笑ってみせる。
「さっき饗子さん、思い切り守秘義務破ってましたよ」
また苺牛乳を飲んでいた饗子は、しまったと言わんばかりに手を口に当てた。
「饗子ちゃん‥‥君は何でそうおっちょこちょいなんだ!」
「す、すみません先生!千春ちゃんが言葉巧みに聞き出すものですからあ!」
「言い掛かりです」
私の方が饗子より年上なのだ。千春ちゃんはない。何よりも私に似合わない。
饗子がぐすぐすと訴える中、私は北枕の目を見つめた。動揺している。
「な、何ですか?お客様」
「矢波千春です。いい加減に覚えて下さい」
北枕は、眼鏡を外して溜め息をついた。
「‥‥盗聴です」
またか、と思ったが、敢えてそこは口に出さなかった。
「また犯罪捜査の何とかですか?」
すると北枕は、上目使いに私を見遣り、目を背けて言った。
「‥‥趣味の範囲での」
「は?」
趣味の盗聴?私は顔をしかめた。
「すみませんすみませんすみません盗聴は趣味だったんです‥‥最初は」
「あ、あの、どういう」
さすがに焦る。いきなりそんなに謝られても、困るだけだ。一応、北枕の方が年長だ。
「私、探偵を始めて14年になります。まだ通信傍受法も敷かれていない頃‥‥
 独立する以前に、住んでいたアパートがありました。独立し、事務所に住み込むことに
 なって‥‥引っ越す記念に、部屋に盗聴器を仕掛けておきました」
そこで北枕は、言葉を切った。
私は、顔をしかめた上に口を半開きにしていた。
「つまりそれが、赤山さんの部屋」
北枕は、無言で頷いた。姉はずっと、赤山の部屋に住んでいた。
ひとつ、細い糸のようなものが、ぴんと繋がった。
「つまり、この前のあの、推理は‥‥全て盗聴の結果」
「お、お客様‥‥素晴らしい推理力ではないですか」
少し尊敬していたのに。探偵小説の謎解きのようで、少し感動していたのに。何だか自分が
情けない。
「お客様‥‥あの」
北枕がおどおどと声を掛ける。
「‥‥犯罪者」
低い声で言い放つと、北枕は泣きそうな顔をした。
「こ、今回のケースは通信傍受法が」
「見苦しいですよ。自己の正当化の為に法律を使わないで下さい」
「す‥‥すみません」
勿論、そんなに怒っているわけではない。
それでも私の睨みは随分効いたらしく、北枕は深く頭を下げた。
「これに懲りて下さい」
何だか面白くて、私は少し笑った。
「先生は有能ですけど盗聴好きの変態ですからねえ」
饗子が、のんびりした口調で釘を刺す。北枕はもう、顔を上げずに震えている。
「‥‥北枕さん。もういいですよ」
このまま帰るわけにもいかないので、北枕を回復させよう-と声を掛けると、北枕は
がばりと顔を上げた。
何故か満面の笑み。怖い。
「どうかしました?」
「やっと名前で呼んでくれましたね、矢波さん!」
やたらハイテンションだ。数秒後に、やっとその言葉の意味を理解した。
「あの‥‥今まで私を名前で呼ばなかったのって、もしかして、その‥‥私が
 呼ばないからですか?」
恐る恐る言うと、北枕は強く頷いた。理由が理解出来ない。中年の男だから、
呼びにくかった-くらいだろうか。
うん、そうだ。呼びにくかったのだ。
ひとり納得していると、北枕はそれは嬉しそうに笑っていた。
「‥‥そろそろ帰ります」
「え!折角名前を」
「私も暇じゃないんです」
「私たちは暇です!もっとお話しましょうよ!」
今日は扉に近いソファーなので、饗子にも回り込まれずに部屋を出ることが出来た。
出入口、アルミのドアノブを握り、思い切り押す―が、びくともしない。焦りながら
がちゃがちゃやるが、開く気配がない。
一昨日の饗子の言葉がふと頭をよぎった。
『「うちの扉、開けるコツがありましてえ』
「‥‥馬鹿な」
落胆する私。そんな私を見てほくそ笑む探偵と助手。
「依頼があるでしょう!」
「お話の方が楽しいでしょう!」
「同意を求めるな!」
何だか私は懐かれてしまったようで。
盗聴探偵との付き合いは、まだ長くなりそうだった。

 

鞄の中の名探偵は、今か今かと事件の終幕を待っている。
姉は私の趣味の中に、推理小説のことを上げなかった筈がない。
浜岸が植物ではなくその話をしなかったのは、嘘を暴かれる側としての罪悪感から
だったのかもしれない。私は、ふとそんなことを思った。

「矢波さん、お電話です」
新入社員が、少し引いた感じで私に言う。そんなに怖いだろうか、私は。
「誰から?」
「ええと‥‥北枕さん、という方から」
またか、と私は溜め息をついた。
受話器に耳を当てると、聞き慣れた声。
『相談があるんです!‥‥またこれが、不思議な事件で』
職場に電話するな、とは言い飽きている。
探偵は困っているようだった。しかし、私はどうしても聞かざるを得ない。
「‥‥不思議な事件ですか?」
鞄の中の名探偵は、今か今かと事件の終幕を待っている。次の頁を開くまで、
事件は終わらない。
探偵という職業が好きでなきゃ、こんな人たちには付き合わないのだ。
『ええ。私には不向きです!』
「威張ることではありません」
黒いスケジュール帳から空白を探す。私はまた少ない有給休暇を使うことになるのだ。
果たして、後何日残っているのだろうか。
探偵が給料を払ってくれるとでも、いうのだろうか?