地獄の回想録

2006年からやっているブログの記事を機械的に貼り付けました。

2017/09/08 15:39:08

 ここからプライベッターやツイッターに書いたものをブログに載せたやつです。

 

 

『縁の切れ目』

 スマホゲームにハマって金を注ぎ込み続けたら、さっきサラ金から督促の電話が来た。でも今はイベント中だからまた後でな。
 記録が残るカードを使うのが何となく嫌だから、アイチューンカードを買う為の金が要る。昨日届いた即日融資を謳う会社の葉書を手にした時、スマホ画面にお知らせが出ていることに気付いた。今ハマっているゲームからのお知らせだ。
 どうやら新しい課金システムが出来たらしい。とはいえ「あなたの人間関係をガチャ石と交換することが出来」るそうだから、課するのは金ではない。意味がわからないが、金以外のものなら出せる。オレは試しに、名前と書かれた欄に大家の名前を入力していく。家賃のことを考えると胃がキリキリした。チャリン。聞き慣れた効果音の後、石が10個追加された。
 10連を回すには石が足りない。試しに、アパートの隣に住む男の名前を入力した。チャリン。聞き慣れた効果音の後、石が10個追加された。
 金を払わなくていいなんて最高のシステムだ。オレは試しに、バイト先の店長の名前を入力した。チャリン。聞き慣れた効果音の後、石が10個追加された。
 人間関係を交換ね。運営の悪ふざけにしてはしっかり作ってるな。オレは試しにバイト先の可愛い同僚の名前を入力した。チャリン。聞き慣れた効果音の後、石が20個追加された。
 鼻息荒く10連ガチャを回す。結果は冴えなかった。だが、どうも「新システム」だとかが導入されているらしい。試してみよう。オレは試しに、高校時代の

 オレは試しに、唯一の友人の名前を入力した。チャリン。聞き慣れた効果音の後、石が100個追加された。
 10連ガチャを何度も回した。パーティーにずらりと高レアのカードを並べると、知らず顔がにやけてしまう。だが、ずっと欲しかったカードがまだ出ていない。あれだけは、どうしても欲しい。
 どうも人間関係を石と交換するシステムが導入されたらしいが、オレには関係がないからただただ憎い。金融会社の葉書を拾って、やたらと小さく書かれた文字に目を通していく。
 借金って、家族も友達も居ない人間でも出来たっけ。オレは溜息をついて、試しに電話を掛けてみることにした。

2016/09/19 00:03

『つき』

鈴木田がにやけ面でじろじろとこちらを見るので、俺は睨んでやる。お前には関係ない、と口の中で呟く。お前は俺の親じゃないし兄じゃないし友人でもない。ただの鈴木田だ。時間の感覚を狂わせた時計だ。つまりは糞の役にも立たない屑だ。
人工太陽サノブリボナ暴走から五十三日。この界隈で生き残っているのは俺と鈴木田と、鈴木田の母親くらいだ。年老いた母親を鈴木田は足手まといと呼んだ。俺はそんな鈴木田が嫌いだった。

 

あと十六年で、太陽崩御の時は訪れる。最後まで識者たちは論争を続けた。地底深くでフルアーマーを纏い、何十年も語り合っていた。
「私たちは死ぬべきなのだ。太陽の替わりなど、産むべきではない」
「何故無為に死なねばならない。人類は何度も滅亡の危機に頻してきた。その度自然の摂理を曲げても、生き延びてきたではないか。今回だけ特別である理由はない。死ぬというなら、お前はそれを脱いでここを出るんだな」

何十年も、何十年も繰り返した所為で、その間に各国の大企業が力を合わせて人工太陽を作り上げてしまった。言葉は間に合わなかった。時は流れすぎた。
「生まれ変わった太陽」の名を持つその人工太陽は、アメリカのヒューストンから打ち上げられ、宇宙で組み立てられることになった。その間にも地底では言い争いが絶えなかった。だから太陽は殺されて、サノブリボナは打ち上げられた。
ある地域では氷河期が訪れていた。素朴な太陽信仰の根付いた地域だった。太陽が死んだ瞬間にその土地は死んだ。殉死に似ている。神を信じない俺は思った。

しかし俺の上では、死ぬ前と大差ない太陽がぎらぎら輝いていた。古典の研究や映像史料を漁り、俺たちの知る太陽よりも少し若返らせたらしかった。陽射しは柔らかく、透き通っていた。
サノブリボナ打ち上げから一週間経つと、人々は長い戦争から解放されたように活気付き始める。太陽の寿命が明確になってから、世界は混乱し絶望し荒れに荒れた。その世界に生まれた俺は初めて真っ直ぐな母の笑顔を見た。洗濯物を抱えながら俺の失敗に笑う母は少女のようで眩しかった。

俺は学校に行き始めた。人は嫌いで協調も嫌いで元々集団生活に向いてないのだと分析していたのに、何故だか行き始めた。世の中が浮かれていたから、俺の頭も浮いてしまったのに違いない。母の笑顔が見たくて、行ってきますと叫んだのに、違いない。

打ち上げから大体一年経った。俺は学校で幾人かの友人を作って太陽の下でだらだら生きた。平和は尊くて愛しくて慈しむべきものだった。
じゃあな、と友人と別れ、家路を歩く。随分と遊び呆け、陽が暮れかけていた。日が延びたな、とぼんやり思った。前の道から誰かが歩いてくる。見知った男は俺を見て小さく頭を下げた。俺も頷くように挨拶をする。すれ違いかけたところで、向こうは俺に掴みかかってきた。

「何かおかしいと思わないか」
絡まれた、と瞬時に判断し、そいつを突き飛ばした。俺は思い切り手を振るったのにそいつはびくりともしなかった。骨ばった色の青白い手は俺の肩を掴んで放さない。
「聞いてくれ」
そいつは俺の名を呼んで諭した。
「今何時かわかるか」
覗く手首には腕時計が巻かれている。意味がわからなかった。
「二十時二分でしょう」
「やはりか」

何がおかしいのだ。こいつの頭がおかしいのではなかろうか。
「それが何です、鈴木田さん」
「サノブリボナの設定は二億年前の、太陽のあった地球だ」
二億年前の地球、と言った。二億年前の太陽、とは言わなかった。
「二億年前、夏至の太陽は、二十時には沈んでいた」

何を言っているのだろう、こいつは。鈴木田のことはよく知っていた。近所の有名人、という噂によって、よく知っていた。恐慌の只中にありながら働きもせず食いもせず学校にも行かずに本を溜め込んで引きこもっている、と有名だった。幼い頃、俺は鈴木田と遊んだことがあるらしく、鈴木田は会う度俺に中途半端な会釈をした。
だから、俺は鈴木田が嫌いだった。

「よくわからないんですけど」
早く帰りたい。母は俺の帰りを待っている。帰らねばならない。それでも鈴木田は手を放さない。
「だから、今太陽が出ているなんてことは、異常だとしか思えないんだ」
「もう暮れかけてますけど」
「未知の危機が目の前に突き付けられても人間は前例の中でしか動けない」
鈴木田は目を細める。
「明日昇る太陽は屍かもしれない」

俺は舌打ちをして、右拳を目一杯下げた。弾かれた弓のように、俺の拳は飛んで、鈴木田の顔面を射抜いた。そして走り出した。
俺は自宅の階段を駆け下りて、ばさりと布団を頭まで被った。どうしたの、と母の声がする。どうしたらいいのだろう、と思う。人を殴ってしまった。ろくでなしで、変質者で、意味のわからない奴だとしても、殴ったのは俺だ。あのまま死んでしまったら俺は殺人者だ。どうしたらいいんだろう。その日はそのまま寝た。素っ裸の男が謝りながら俺の髪を食いちぎる夢を見た。起きて直ぐ忘れた。

俺の部屋は地下にある。太陽崩御に備えて作ったシェルターに俺は寝ている。無骨で寒い。夏にはいい。梯子段を昇り天井に付けられた扉を押し上げる。やけに重たく、微かに開いたばかりだった。洩れる陽光に目を細める。

痛い。
痛い痛い痛い痛い痛い。痛い。俺は右目を押さえる。何かが刺さったのか。じりじりと瞼は熱を発する。焼かれているようだ。太陽。生まれ変わった太陽。堪らず片目を頼りに階段を落ちるように下りる。
そんな、と口の中で呟く。そんな馬鹿なことがある筈ない。それでも俺は階段を上がることが出来なかった。何故なら上から母の声は聞こえず慌ただしい父の歩みも聞こえないからだ。だから俺は寝ていてもおかしくない。
狂ったようにサイレンが鳴り響いている。痛みは引かなかった。思い出したように俺を虐め、熱を持ち続けた。

携帯電話で連絡を試みた。友人にメールを入れ、電話を掛ける。少ない友人たちは誰も応答しなかった。パソコンを立ち上げニュースを読むと、とち狂ったような文章が画面中を占めていた。やはりサノブリボナは壊れたらしかった。そんな馬鹿なことが。生まれ変わる為に死んだ太陽は二度と生まれることはなかった。空にはさんさんと生ける屍が輝いている。

いつからかパソコンの時計が狂っていた。ネットの記事を読むに、俺の感覚が狂ったわけではないらしかった。昨夜から徐々にずれてきているらしい。もう陽の落ちる「二十時」になったというのに、時計は八つ時を指している。俺の信じていた時間はもう俺の中にしかない。
時計がなくても時は進む。二十時は夜なのだ、と漸く思い出した。

力の入らない体勢で無理矢理扉を押し上げると、どろりとした物体が流れ落ちてきた。赤と黄の混じる粘液のようなそれは見覚えのある髪飾りを飲み込んで俺の腕を侵した。
ああ。
思わず右の瞼を上げると何かが俺の頬をどろどろ這い始めた。熱い。俺はこの狭い視界で生きていかねばならないのか、と思うと、涙が出た。右から出ているのかはわからない。熱い粘液はまだ俺の右頬を這っている。

「ほら」
鈴木田が俺を見下ろしている。
「言ったじゃないか」
俺は奴の痩せた左頬をもう一発殴ってやった。その日から、五十三日目だ。

 

「あんたは何も食わないんでしょう」
鈴木田はここに至ってまだ人道だの道徳だのとほざいている。俺が窓を叩き割って侵入すれば従いてくる癖に、自分の手は汚さないし、盗品は食わないし食わせない。俺が罪を作るとにやにや笑って俺を見る。
「そして死んでいくんですね」
「人間は死ぬべきだったんだよ」
「でも生き残ってしまったんですから」
生きるしかない。俺は死ぬことが出来ない。だから何としても生きなければいけないのだ。

「あんた死ねばいいじゃないですか」
「足手まといが居るから死ねないんだ」
また足手まといという。俺は湿気たコーンフレークを食道に流し込む。喉が渇いたので台所の蛇口から直接水を飲んだ。この水もいずれ終わるのだろう。コンロの前には、腐敗を通り越してかぴかぴに乾いた肉塊があった。俺もいずれかぴかぴに乾くのだろう。

「馬鹿じゃないですか」
「馬鹿でいいんだ。俺は大事なものを曲げたくない。死んでもね」
「じゃあ何で俺と行動するんだ」
鈴木田は、サノブリボナの影響を受けない夜間だけ俺と行動を共にする。時計が壊れ、鈴木田は時間を失くしたから、俺が夜明けを報せれば足手まといの所に帰って行く。
身は安全にしたって、俺は犯罪者で暴力的で愚かで屑で馬鹿だ。行動を共にする理由なんて、欠片もないのだ。もしかして鈴木田は俺以上の馬鹿で屑なんじゃないのか。

「俺はあんたの道徳に賛同出来ない」
「しなくていい。君は君の価値の中で生きればいい」
「じゃあ従いてくんなよ!」
俺はまた鈴木田を殴る。思えばあれからこいつを殴り続けている。それでも鈴木田は従いてくる。もしかして変態なんじゃないか。俺は殴りたくて殴っているわけじゃない。殴った手は痛い。面白くも何ともない。

鈴木田はげほげほ噎せる。それでからにやりと笑ってこちらを向いた。やっぱり変態かもしれん。俺も何だか知らんが笑った。
「面白いのですか」
俺は聞く。笑いながら聞く。
「面白い筈がない」
「では何故笑います」
「その暴力性さ」
笑う理由にはならない。鈴木田は笑いのつぼもおかしいのかもしれない。

「君は人面獣心、野生にあるべき存在なのかも知れないな。適応能力が余りにも高い。突然の環境変化にも君は恐ろしいくらいの早さで順応した」
「それが面白いですか」
「酷く凶悪に、君は生まれ変わった」
「凶悪ですか」
禍々しき悪。俺は笑う。おかしなことを言う。お前の価値で生きろと言いながら、善だ悪だと散々喚く。俺からすれば凶悪はお前の方だ。

「さんざ親の脛齧って生き永らえてきた人が言いますね」
「脛を齧れる程逞しくない。脚が立たんのさ。いずれ殺してやろうとずっと心していたのに、あの日俺は足手まといを押入れにぶち込んだんだ。お陰でまだ生きている。君と同じだ。死ねなかったのさ」
俺はいつそんなことを洩らしたろうか。こいつにそんな、切なる愚痴を吐いたのだろうか。口惜しくて舌を打った。

「なら、ずっとその足手まといさんの所に居ればいいでしょう。従いてくるな。煩いんだ」
「君は後悔しているんだろう。俺の忠告を聞かず母親を殺してしまった不孝に苦しんでいる。それを忘れる為に俺を殴り、家を破り、人を脱しようとしている。君に比べれば、俺は至極真っ当な人間なんじゃないかって、錯覚するんだ。君と共にある間だけ、俺は人であることが出来る」
「意味わかりませんよ」

「君はわからなくていいんだ。わかろうとしたところで、無駄な努力さ。鏡は己の形を知ることが出来ない。時計は己で時を知ることが出来ない」
「ああ、わけわからん。きもいわ。何処が真っ当な人間ですか」
鈴木田はとにかく従いてくるのだ。それだけは理解した。俺の理解出来ない理由で以て従いてくる。俺は楽しくもないが憎々しい横っ面を殴るだけなので別に従いてきたって構わない。

どうせこいつは近々死ぬのだ。鈴木田は何も食ってないのだ。もう死ぬ。大丈夫。
大丈夫。

右頬に指を滑らす。すっかり浮き出た頬骨が乾いた肌を突き破りかねない。
鈴木田は五十三日前とちっとも変わらない青白い顔をして骨ばった指を左頬に当てている。

ふ、と口唇の隙間から息が洩れた。笑い出したら止まらないから俺は下唇を噛んで抑えた。
何て下らない。
それでも俺はこの世界で生きていくんだ。ここは俺の為の世界で、俺は生き残ってしまったのだから死ぬわけにいかない。まだ夜は明けない。秋になれば夜は段々と長くなっていくのだろうか。それとも徐々に短くなっていくのだろうか。前例がないから、俺にはわからない。

俺は空っぽの右目ににやけた笑顔を映して、鈴木田にそれを問うてみるべきか悩み、思い直してから口を開く。
「夜が明けますよ」
それでから走り出した。

ただひとり真夜中の手放された街に出る。長い地球の歴史の最初の日と最期の日は今現在かもしれない。空には二度目の死を謳歌する太陽が浮かんでいる。今はナイトモードだから消灯状態だ。太陽を亡くした月はもう死んでいる。生きているのはもう、俺だけだった。

2015/06/24 12:53

環状線

 昔書いたやつです。


 足元を猫が走っていると思えば、それは揺れに合わせて転がるコーヒーの空き缶だった。長い夢を見ていた。どれくらい眠っていたのかと外の風景に目を遣るが、間抜けに口を開いた俺の顔が見えるばかりである。
 車内は閑散としていた。俺は車内に立ち込める熱気に当てられて眠りに落ちた筈なのに、起きてみれば酷く寒い。気の利きすぎた暖房のお陰で、己の汗の冷たさに身を震わせる羽目になった。その所為で眠気もすっかり失せてくれた。
 腕時計を見遣る。もう直ぐ家に着く頃だろうか。コートの襟を合わせて、溜め息をつく。汗も徐々に引いてきて、体はぽかぽかと温まり出す。ここは楽園だ。外はどれだけ寒いだろう。この数日は雪が降りそうな、鋭い冷気を感じるのが常だった。

 からからから、と空き缶が転がった。
 缶から視線を上げると、自然に女と目が合う。俺の真正面に、いつの間にか女がひとり座っていた。蜂蜜のような黄色の、ふんわりしたワンピースを着た、すらりと痩せた美人だった。女は口許に微かに笑みを浮かべて、じっと俺を睨んでいた。
 美人に見詰められるというのも悪い気はしないが、俺は間違っても一目惚れされるような顔をしていない。その悲しい自覚が、沸き立つ自惚れを抑え込む。俺を誘っているわけではない。では知り合いだろうか。いや、記憶にない。次第に薄気味悪くなってきて、目を閉じて席にもたれ掛かった。

 からからから、と空き缶が転がった。それはかつん、と俺の爪先にぶつかった。
「おお」
 目を開けると、先の女が目の前に立っている。つい声をあげてしまった。女はただ微笑を湛えていた。
 女の足首には、木で作ったビーズのアクセサリーが巻かれていた。切れると願いが叶うという、あれだと思う。何という名前だったか。
 しかしこの空きに空いた車内で、わざわざ俺の前に立つというのがあるか。しかも女の視線は、変わらず俺に向けられている。

「あの」
 出来るだけにこやかに、女に声をかけた。
「何か、ご用でしょうか」
「いいえ」
 女の声はいやに高く、少女のように拙いものだった。ワンピースから伸びる細長い四肢に、不釣り合いな響きがあった。
「そうですか」
 いいえと言われてしまえば、これ以上言うことはない。どうせ俺は直ぐ降りるのだ。気にしたら負けだ。

 女が同じ駅で降りて、俺の後ろを着いてくる想像をする。俺は女と面識もないのだから、殺される心配はなかろうが、わからない。俺にとっての些細なことが、とんでもなく重大なことであるかもしれない。不意に睨んでしまっただとか、肩と肩がぶつかっただとか、考えてみれば恨まれる原因なんて幾らでもあるのだった。
 特に電車の中なんて、酷い。そもそも俺が座ってゆっくりと眠りにつくことが出来たのは、他人への無関心という武器で以て人を傷付けたからに他ならないのだ。誰もがそうしている。恨まれて然るべき、なんて理由は俺には見付からない。

「もし」
 女の甲高い声が、虎落笛(もがりぶえ)のように聞こえた。
「もし」
「はい?」
「あなたは何故私の前に座っているのでしょうか」
「はあ。何故と聞かれても」
 逆に聞きたい。何故俺の前に立つか。
「俺は元からここに座ってましたから」
「いいえ、いいえ。そこに座るのは私の子でした。何故あなたがそこに居るのです。気味の悪いこと」
「いや」
 気味が悪いのはこちらだ。この時間、子供が乗るようなことは稀だ。間違っても、こいつの子供なぞここには居ない。

「勘違いなされてるんですよ」
「いや、そこに座るべきなのは、確かに彼の妻だったね」
 妻ときた。とうとうおかしい。
「何故君がそこに座っているんだ。そこは彼の、妻の席だ」
「いや、ですから」
「ですから、じゃねえよ。ざけんなし。俺のミサの席なんだよ。退けよ、爺」
 爺とは心外な。俺は君と、十くらいしか変わらない。年長者に対して、偉そうに。
「ここは俺の席だ。俺が座っていたんだ。うるさいよ、何なんだよ」

「いいえ、いいえ。あなたの席ではありません。私の玄孫の席です」
「違う」
「いや、私は見ていた。彼の妻の席だ」
「違う」
「ミサの席だっつってんだろ」
「違う」
 からからから、と空き缶が転がった。それは俺の足許を離れて、対面する座席に座る女の足許にあった。
「落とした」
 女はぽつりと言って、缶を拾い上げた。そしてそれを大事そうに掌で包んで、ゆっくりと目を閉じた。
 アナウンスもなしに扉が開く。空気が急激に冷える。見覚えのあるホームの端が見えた。
 俺は鞄を抱え、コートの襟を掻き合わせて、電車を降りた。


   ■


 からからから、と空き缶が転がった。
「そっちに行っちゃ駄目よ」
 空き缶に対して注意するやつがあるだろうか。何かと思えば、まだ三つくらいの少女が俺の足許に座り込んでいて、その母親が連れ返しに来たようだ。
「駄目よ」
 こんな時間に、こんな幼子が居るのか。新鮮な気分になる。
「すみません」
 母親は苦笑いで頭を下げる。俺はただ笑いかける。そうか、居るものだな。俺はてっきり、この時間の電車に乗るのは帰宅するサラリーマンと学生だけだと思っていた。
 居るものだな。

「落とした」
 俺の足許の少女が、ぽつりと言った。
「落とした、落とした」
 屈んで床を眺めるが、落ちているのは空き缶だけだ。
「何を?」
「赤ちゃん」
「は?」
「ミサ」
 母親が慌てて子供を抱き上げる。子供は嫌々ともがくが、結局は押さえ込まれて対面の席に座るのだった。子供はきょろきょろ俺の顔を見た。

 扉が開く。冷気が滑り込む。
「寒い。ママ、いっぱいホットケーキ。いっぱい」
 親子は何か語らいながら電車を降りた。その後ろ姿を見るともなしに見て、扉が閉まる。むわりとした嫌な熱気が、俺の身体を包む。いやに暑い。暖房の設定温度を間違えているに違いない。背中を汗が伝った。

 女はやはり俺の対面に座っていた。真っ白い無気味な顔に優しい微笑を貼り付けて、俺を見詰めていた。俺はその微笑を求めていたような、拒んでいたような、懐かしい感覚に襲われる。その目で、漸くぴんときた。
「嘘をついていると思ったのでしょう」
 外気と同じ、温度の低い声だった。
「嘘?」
「ほら、見ての通り」
 指先で蜂蜜色のワンピースの裾をつまみ、広げてみせる。ふんわりとしたそれは、女の身体の線を巧妙に隠している。
「夫の誕生日だったんです。だから、私の体調なんか気にしてもらいたくなかった。元々無神経な人でしたけど」

 鏡のような窓ガラスに、不良めいた男の横顔が、ゾートロープのように浮かぶ。それは女の背後で、女の後頭部に向けて、笑いかけていた。
 例のアクセサリーが巻かれた足許は少し厚みのあるサンダルで、女はそれを見て無防備に、困ったように眉を下げた。初めて、女の顔に表情が生まれた。
「無茶というか、無理をしたんです。大丈夫だと思った。予定日も先でしたし、まだ」
「どうして、あんな時間に」
「夫の仕事が終わる時間に合わせて、電車に乗ったんです。知りませんでした。あんなに混んでいるものですか。無理矢理人が詰め込まれて、出荷されていくみたいですね」

 無言の俺に気付いてか、女はくすりと笑い、
「嘘をついていると思ったのでしょう」
「ああ」
 あんな時間のあんな電車の中に、妊婦が居る筈がない。おまけに派手な格好をしている。ただ座りたいが為に妊婦の振りをしたせこい女だと、思うことにした。
「俺を恨んでいるのか」
「いいえ、恨んでなんか。あなたでなくても、こうなっていたでしょうから」
 そうかもしれない。ただ偶然、この女が俺の前に立っていただけ。ただ偶然、その電車が急停車しただけ。それが俺でなくとも、結果は変わらなかったかもしれない。俺でなくとも、この赤ん坊を殺したかもしれない。誰だって。
 俺は何を必死に無意味な正当化をしようとしているんだ。
「私はあなたと無関係な人間ですから。無関心も仕方ありません。私だって、私を殺し得たかもしれない」
 女はふと溜め息を洩らした。
「目の前に立っていたって、何処までも無関係なのですから」
「本当に俺を恨んでないのか」
「恨んでほしいんですか?」
 俺は答えられなかった。ただ口を結んで俯く。
「あなたを恨んではいません。何度も言いますが、偶然だったんですから」
「ならどうして、今、俺の前に現れた」

 女は小さく首を傾げて、閉じた口を薄く笑みの形にした。俺は何て野暮なことを聞いたのだろうか。細い腕が、足許の木のアクセサリーを撫でる。
「私はただ、元気な赤ちゃんが産みたかっただけです」
 それが切れるのは、果たしていつになるのだろうか。それは女にとって足枷なのか、心の支えなのか、俺にはわからない。
「まだ、若いじゃないか」
 俺は自覚をして、無責任なことを言った。
「また、作ればいいじゃないか」
「そうでしょうか」

 アナウンスもなしに、扉が開いた。驚いて振り返るが、俺の無表情と目が合うばかりだ。
「そうだ。だから早く降りなさい」
 ガラスの向こうの女に語りかける。
「でも、こんな格好じゃ外には出られないでしょう」
 ガラスの向こうの女が立ち上がる。ノースリーブの、暖色のワンピースが膨らむ。
「私はまだまだここに居ますよ」

 車らしき閃きに浮かび上がった景色で、漸く目当ての駅であることに気付く。悠長にしすぎた。急いで降りると、間一髪、背後で扉が閉まった。
 寒い。寒い。じっとりと、嫌な脂汗を全身に掻いている。刺すように寒い。ポケットに手を突っ込み、首をすくめて、人気のないホームを出る。

 白いワンボックスカーの窓が開き、
「お帰り」
 妻は悪戯を仕掛ける子供のような笑みを浮かべた。
「‥‥大丈夫なのか」
 対照的に陰鬱な調子になった俺を不思議がるように、首を傾げる。
「何が?」
「腹だよ。赤ん坊が居るじゃないか」
「珍しいね、心配してくれるなんて」
 寒いから早く乗ってよと急かされて、助手席の扉に手を掛ける。

 からからから、と空き缶が転がった。誰かが、或いは俺が捨てたそれを指先でつまみ上げて、ごみ箱に放り投げた。それは籠の縁を叩いて、煌々と光る自動販売機の前に落ちた。
「ちゃんと捨ててきなよ」
 不服ながらも、こそこそと缶を拾い上げ、きちんとごみ箱に捨てる。円を描く矢印の中心に、陳腐な文句が書かれている。リサイクルでごみのない街。ぐるぐるぐるぐる回り続けて、バターにでもなるつもりなのだろうか。あの女はきっと阿呆だ。あの暖かな世界でぐるぐる回っている内に、脳も身体もどろどろに溶けてしまったのだ。

 俺は妻を助手席に移し、家路を駆けた。半分くらい行ったところで、はらはらとみぞれ状の雪が降り出した。この程度の雪では電車も止まるまい。俺は十年前に死んだ見知らぬ女の為に、十年ぶりに、幾度目かの涙を流した。

2013/01/22 17:43

『地軸傾けて海に沈める』

 俺に通う血の温度を計ったって平均値平常値ド真ん中ストレートをぶち抜くフォッサマグナみたいに。平均的な俺は。
 地軸が大いに乱れて飛び起きた。平々凡々とはいうがヘイキンというのが正しい位置にあるか?答えはノーだ。平均はいつでも主観的だ。どうしても自身の方に傾くもんだ。
 一口に枠組みだけを話したって何にもなりゃしない。俺は日本人で!それがどうした。お前の意見は聞いてない。お前の意見はお前の意見だからだ。干渉するな!

 そう、飛び起きた俺だ。俺はどうしたかというとまず便所に行ったね。
それでからどうしたものかと考えることにした。地軸がズレるというのは大問題だ。地球は何度だか知らないがちょっと斜めに傾いている。斜に構える地球ということだ。粋がってんじゃねえよ!道のド真ん中で吐く連中が朝からグッモーニンの挨拶がわりにゲロだぜ。俺はドロドロの道を走り抜けて心中のお誘いに行った。
 幽霊みたいに青白い顔した女が俺の脚を引いてスリーパーホールドを決めてきやがる。そういうイカレた連中を物理的に踏み越え乗り越えして、俺は物理的に君の元に辿り着いた。その頃には返りゲロ塗れで、まあいっかななんてラフな気持ちで来てしまったことを激しく後悔、反省すれども着いてしまったもんは仕方ない。ハイツ吉宗402号室のインターホンを狂ったように押した。狂ったように押させたのは君だ。早く出てくれないから。
 郵便受けから声を掛けると君の嘔吐いた一瞬間後に吐瀉物がびたびたタイルを叩く音がした。こいつも吐きやがる!でも俺は大丈夫かい大丈夫かいなどといって励ます。開けとくれよとノブをがちゃがちゃやるが一向に開く気配がない。裏切り者め。俺は思い付く限りの罵倒を浴びせて、思い付かなくなったところで立ち去った。

 地軸があれになっても平気なのはどうやら俺くらいらしい。免疫でもあるのかしら。なら俺から特効薬を作ったら製薬会社も俺も大儲けなのではないか。俺は心持ち真摯な顔付きをして背筋も真っ直ぐゲロロードを闊歩、この場合のマッスグな背筋っていうのは普遍的なもんじゃなくて、何故なら地軸が傾いたから空と大地の平行線も狂う狂う、だから一応俺なりのマッスグを貫いた背筋で歩いていた。製薬会社の場所なんか知らんので便宜上の真っ直ぐで歩いていったら海に出た。何かちょっと俺から見て右側の方が水が多い。コップの中の水だね。それでも水平線はちゃんと在る。
 そういや死に損ねたっけ。心中の約束はもっと遠い昔に1度してる。今度こそとでもいうつもりだったのか、でも昔のあの子は君じゃない。こんな辛い目に遭うのなら死んでやろうと思っていたのさ!俺たちは首の皮一枚でどうにか生き延びた。教師の匙加減ひとつで。きったねえ人差し指で。
 約束した死に場所は海じゃなかったし俺は泳げないし風がべたべたするし正直海なんて大っ嫌いだけど、それでも感傷的にはなるね。今頃魚たちはどうしてんのかしら。もう地球を脱出したのかね。穿った見方をすれば人類の横暴を考えればこうなって当然ということだね。でも地球を動かしてんのは人間じゃないからそういう理屈は立たない。1億も2億も生きてちゃ色んなことがあるさ。そういうことだ。だから俺は「宇宙から使者が来て地球に対して酷いことばっかやってる人類滅ぼしちゃうよ系」の話が嫌い。都市に住む人間だけが出来る発想だ。そんな話今のところふたつしか知らねーが。ふたつも知ってるなんて。大体そんな糞下らねえ話がこの世に少なくともふたつは存在するなんて!
 俺は遣る方ない怒りに襲われて神経がバースト、フルスロットルでアバンギャルド、何それ?口を開くと叫び出しそうだから手でがっしり押さえ付けて海岸沿いを走っていった。ゲロよかマシだが砂に足を取られて走りにくい。そうだ。製薬会社に行くんだった。ボロ儲けの大金持ちで海原に札束浮かべて美女を侍らせ人生が変わりましたって厭らしい笑みを湛えんのさ、信じて下さい。世界を救いたいと思いました。俺の力で苦しむ人をひとりでも減らしたいと。
 スーツの男は値踏みするように、ようにっていったけど実際に目視だけで俺に値段を付けて鼻から短い息を洩らした。次に云うことはわかってるぜ。それで?だ。それで。それで。俺は。地軸が傾いて目が醒めたんです。助けて下さい。俺だけが無事です。吐きません。吐けません。苦しいのです。俺は。俺を。どうか。
「口を開いてみてはどうですか」
 俺は固く結んだ口を開いた。堰切って色んなものが溢れ出てきて涙もボロボロ出てきた。ボロボロ。でもそこに確かなものなんか存在しなかった。
「俺は何なのでしょう」
パラノイアだね」
「いや何処にでも居るよ。君のような人間は。こういうご時世だからね。いざってなるとそうなっちゃう子、多いんだ。だから気にすることはない。君は」
 平均的だよ。そうか。何処かで聞いた。ドストレートの回答だ。ストライク。だから覚えてる。そこから反論は始まったんだ。あなたがなければ今の俺はない。有難う。
「最後に何か、アピールしておきたいことはありますか?」
「俺から特効薬が作れますよ」
 俺はへらへら笑った。ゲロの臭いがやばかったけど、俺のだからいいよね。

2013-01-22 12:24

『後回』

 奴の表面的な態度の、或いは深層に潜む悪漢めいた性質を見抜いてないではなかった。ドラッグの代用品の遣り過ぎでぶっ飛んでいた意識が戻ってくるまでの三日間、仏壇の菊が悉く茶色く染まるまでの三日間、まさかその三日で俺の努力がパーになろうとは。思ってもいなかっただけのこと。

 感じていたかも知れないけれど。

 母と父を失った俺たちは空気の中を漂う何かもやもやしたものをぱくぱく吸い込むみたいに息をして、呼吸がままならないから問題は後回しって面を誰からともなくして、三十年モノの一軒家を行く当てもなく彷徨っていた。弔問客を捌いて三十年の人生の中で一番多忙な三日間を終えた長兄は、カウチで眠り込んでいると思っていたら消滅していた。スーツを着て出ていったというから一週間待ったが、行き先は会社ではないらしかった。俺は兄を失った。

 次兄と俺は隠者のような生活をしていたから生活の為の所作が非常に胡乱で、妹に頼むことにした。それが我が家の総意だった。民主的!冷蔵庫が壊れて中身が腐り始めた。買い換える金はない。その日食うものはその日手に入れた方がずっと安い。腐ってもらって結構だ。俺には関係ないね。でも妹にとっては大事らしくて次兄の頬に後ろ回し蹴りを喰らわせて前歯を欠損させた。あんまりにも酷い顔だったので指を差して笑ってやると、次兄も照れたみたいににへにへしてその場は丸く収まった。

 三兄は脚の神経をまじでぶち切っていて動けないらしい。幼稚園のぐるぐる回る遊具に立ったらたったそれだけの行いの悪さで両脚の何かを断ったとかいう。それから車椅子生活だというが俺は顔を合わせるのも稀だった。一階から甲高い金属の軋む音が聞こえると、あああれが三兄かとぼんやり考えたりして、俺たちの接点はそれだけだった。俺の顔を見るなり三兄はぺこりと頭を下げて、にこりと笑った。漫画みたいな笑顔で。そして小さな声で悪いね、と言った。我が家の人間とはとても思えない。胃の痛くなるような思いがして三兄の部屋を出た。がちゃりと内側から鍵のかかった音がした。がちゃり。

 四兄は大学を二浪して存在証明《ガクセイショウ》を勝ち取った。今何年生なのか知らないが、まだ大学は奴を追い出さない。金を搾り取れるだけ取ろうという算段だ。四兄に残された存在意義は、それだけだ。

 五兄に関しては書くことがない。それは五兄が悪いわけでも何でもなくて、俺の生まれる前に五兄は死んだから。手記を沢山残していて、誰かの意向で捨てずにあるから可哀想に五兄の思考はだだ漏れ、漏れに漏れて、今や俺の手に渡っている。大学ノート六冊分に及ぶそれは二十二の頃から二十五歳迄の、日記とも呼べない代物だった。多分日記の方が面白い。一言でいえば陳腐で下らない。でも五兄が悪いわけでも何でもなくて、誰に見せることも意図していないのだから仕方ない。ノートの表紙にはただ使い始めの日付けだけが書かれている。自分の為の、手記だった。愛も恋も絶望も悪戯心も未練も何もない、死人の落書きだ。俺が居なくなったら再生紙に出されるだろう。そして五兄の存在は消える。それが摂理だ。

 さて、摂理なんて正解みたいな言葉が出たところで総ての答えを聞こうか。
「それは知ってる。四十二だよ」
「受け売りじゃ駄目だ。お前の答えだ。お前は何人目?」
「九男」
「じゃあ俺は何人目?」
「知らないよ」
「次男だよ。お前の弟だ」
 意味がわからないって顔をしやがる。会社に出ていたから綺麗に剃られていた髭もぼうぼうと伸びて、餓鬼っぽい表情が似合わない。苛々してヘッドバットを喰らわせるとまた歯が抜けた。よくよく歯の抜ける男だ。

「消えろよ」
 こいつらの所為で兄は消えた。安いスーツは近所のコンビニのゴミ箱に捨てられてた。象徴的だ!余りにシンボリックだから、そうか、こいつらはそれぞれ象徴の塊なのだと思った。その象徴さえ消してしまえばこいゆらは消える。消して消して、全部消したら兄は戻ってくる?
 それとも兄の肉体は空っぽになるのだろうか?
「お前の答えは何だ?九兄。四十二以外で頼むよ。いや、おい。あの本を読んだのか?俺の部屋を漁ったのか?ふざけんなよ。ふざけんな。あれは兄貴の本だったんだよ。やっと手に入ったんだ。お前なんかに触らせて堪るか。堪るか。堪るか。さあ、答えろ。答えは?お前は」
「ごめんね、お兄ちゃん、ごめんね」

 右腕がぶるりと震える。十も離れた大きな兄が俺は怖くて、
「もう本を取ったりしません」
 怖くて右腕に押し付けられる、
「熱いよ」
 押し付けられる煙草の八五〇度に怯えて泣いた。わんわん泣いた。ふざけんな。
「消えろよ」

      ◆

 冷蔵庫を新調した。一番上の兄が人格の中から消滅したらしいので、貯金と保険金だけで何とかやってきたが流石に辛い。と頭を抱えていたところにこの僥倖である。親が私たちに懸けていた保険は人格の死じゃ下りやしないが、こうなれば話は別だ。
「有難う、お兄ちゃん」
 小さい小さい冷蔵庫だけど、ふたりなら足りるだろう。

 

answer to life, the universe and everything=42

2012/12/17 14:54

『ラブフォーエバー』

 グラスウェイの半分まで来た。
 朝から休まず歩いているから少年の心も挫けてしまってとても。とても。
 吉日だというので父に昼飯代を貰って旅に出ることにした。愛車は兄が鉄屑にしてしまったので、徒歩での旅を余儀なくされていた。目的はない。カスみたいな夢を見るようになってちょうど一周年だから、目的なく歩いている。

 夢の中に人間が登場するのは稀だった。だからよく覚えている。一年前の寝苦しい夜だった。視界がちかちかして耳に入らぬ音が脳の中で絶え間なく鳴り続ける。それが突然ぱたっと止んで、暗闇に変わる。光る。艶々していた。女の手が目を覆う。そして耳元で呟く。ざっざっざっという音に掻き消された声が、耳の在らぬ場所で聞こえていた。
 汗だくで目が覚める。起きざまに足が攣るみたいに吐き気が襲ってきた。何度も同じ夢を見た。それから一年経つ。家族にも友人にも言いそびれて一年経つ。一周年なら何か変化があろうと思って日常とは違うことをしとうと思った。幾つかの選択肢の中で一番魅力的に思えたから旅をすることにした。

 グラスウェイの半分まで来た。かんかんと照らす陽光に当てられて俺の意識は飛んだ。

 道の真ん中で例の夢を見た。
 どぎゅきんきんかんずるぎきぎといってしんと静まり返る。白い光が脂の塊みたいな暗闇を裂く。ぼやぼやした覚束ない視界だった。女の手が天から下りてきて目を閉ざす。
 わかった。今漸く理解った。これは母の手だ。生まれる俺と死に逝く母が同じ視界を共有しているからわからないのだ。
 しかし声はやはり土を掻くような音に消されてしまう。それも仕方ない。もう母の耳はまともな音を拾えなくなっていたのだ。
 母は瞼を動かす力を失していたが、その目は光を吸って伸縮していた。祖母が瞼を撫で下ろし、母の五感は途絶える。皺の寄った手は、母が最期に見た光だった。

 俺はゆっくりと目を開ける。霞んだ風景だった。見知らぬ汚いなりの女が大きなバケツを構えている。中身を俺にぶっ掛けやがる。液体が変なところに入って大いに噎せた。
「起きたけ」
 バケツ女が笑う。起き上がろうとしたら吐いた。胃液だけの吐瀉物が服を汚す。
「無理すんな。もうちょっと寝てろ寝てろ」
 バケツ女の大きくてかさかさした手が、俺の目を覆う。温かな手だった。肥料とゲロの臭いがした。俺は目を閉じ、深く息を吐く。

 ざっざっと土を掘る音が聞こえてきた。そこから先は知らない。

 

   ★


 あるブロガーに憧れてエキブロを始めたのですが、その方が記事を全部削除してしまい悲しくてなりません。

2012/06/21 20:37

アルターエゴ』


アルターエゴ

家庭の。
ごたごたと試験期間が重なっていた。死ぬか殺すかの境で油彩画でも始めたら少しは救われるだろうかと腹の中だけで考えている。レポートが四本も溜まってんのに、材料もないから九段下から神保町の方に向かって歩いていた。
材料どころか、実際は何も思い付いちゃいない。捻り出すつもりで手に持ったペンはくるくる回って紙を汚す。今朝はもう何も考えられなくて、髭も剃り忘れた。それでも、ただ座っていられるだけの余裕もまだない。何かに追われているようで、何処にも居られなかった。
「偶然」
偶然を装った血塗れの男がおれを呼ぶ。こいつは昭和館を背負って建つ交番の前でずっと信号待ちしてやがる。脚がねえからそこから動けねえんだ。お巡りさんに助けてもらえばいいのに。
「何?四限終わり?これからどっか行くの」
何処にも行かねえのにこんな場所に居るのはお前くらいだ。
「いいなあ。俺もどっか行きてえなあ。いいなあ。羨ましいわ。お前何年生になったの」
おれは右の指を三本伸ばした。
「もうそんなになんのかよ。うわ、月日経つの早えわ。そりゃ俺だって老けるわな。怖え」
信号が変わったので血塗れ野郎から解放される。あんな態してる癖に、阿呆だから同情する気も起きない。ただ、あれに面が割れていると思うと何となく恥ずかしいような気分になる。
頭の長い爺の銅像が、向こうの歩道からおれを睨んでいる。こないだは九段下の方を向いて、キャサリンゼタジョーンズみたいなトリニトロトルエン火薬ボディの姉ちゃんを睨んでいた。この時間は愛煙家たちに囲まれて、煙たそうだ。千代田区は喫煙者に厳しい。あの爺さんの半径三メートルくらいは都会のオアシスってやつなのだろう。おれにはわからないが。
爺さんは七人乗りの船の乗組員らしい。こんな爺に船乗りやらせるなんて、酷だよな。生涯現役が空回りして軋み始めている。隠居させてやれよ。
七人みさきっていうのも水辺に出る七人組だが、こっちの方は超一流の殺し屋だ。各地で謂れがあるらしくてよくわからんが、見た奴はとにかく死ぬ。で、死んだ奴はその七人組に加入して代わりにひとり成仏する。人が殺せりゃ一抜けなんて物騒だが、餓鬼の作ったルールみたいでちょっと阿呆っぽい。
頭の上に首都高の陸橋が走る俎橋《まないたばし》を渡る。七人みさきは出ないが、緑色の日本橋川には目ん玉がシジミシジミババアが泳いでやがる。二枚貝が変に黒光りする。
まことに解せねえが目がいいから、直ぐにおれを見付けて立ち泳ぎを始める。その時は貝殻がぱかっと開いて中の黄色いうねうねしたのがおれを見上げやがる。節穴の癖に。おれに難癖付ける腹なんだ。おれの一挙手一投足に文句を付けて、貶めるつもりなんだ。
確信がある。昨夜インスタントの糞不味い味噌汁を飲んだ。違和感があって噛んだシジミを吐き出したら、小せえシジミの肉は赤黒い血の色に染まっていた。口内は切れちゃいない。シジミは赤い血を持たない。シジミババアのことを思い出した。あいつにはめられたのだと思った。
出来るだけ早足で、それでも毅然とした風に俎橋を渡り切る。直ぐに糞短い横断歩道に出る。機を見て渡ってしまいたいが、微妙に車が続きやがっていけない。シジミババアの視線を背中に感じた。居並ぶリーマンを掻き割って、隠れる。婆の悪意を総身に受けて耐えられるような強い人間ではない。あいつは性質《たち》が悪い。同志を気取る馴れなれしい血塗れ野郎もおれを追うように睨む寿老人も、まだ可愛いもんだ。問題は目から水管伸ばすような輩だ。ああいうのは得てして、自分のことが見えちゃいねえ。
ようやっと信号が青になったので、喜び勇んで神保町へ歩を進める。実際は喜んでも勇んでもいない。あれから逃げて生きていけるわけでもない。でも今は逃げるしかない。いずれ、食塩水を用意する。
反対側の歩道にあった糞ボロい九段下ビルがとても好きだったのだけれど、昨年くらいにとうとう壊されてしまった。インターネットで見てみれば、勝手に入ることが出来たらしい。惜しいことだが過ぎたこと、最早更地と成り果てつ。でもまあ早々壊した方が、地震なんかで人が死ぬよりずっといい。
いつもそうだ。全てが遅い。気付けばもう、壊れている。でもまあ早々壊れた方が、人が死ぬより。ぐるぐる頭を駆け回る。これでよかったんだ。誰も死なずに済んだ。おれはずっと懸念していた。誰かが死ぬまでこれは終わらんことなのだと。その死ぬのはおれでもなく爺でも婆でもヒキニートの兄貴でもなく、まだあどけない顔して段ボールいっぱいに肌色の同人誌を隠していた可愛い妹なのだと。でもそんなご都合主義で悲劇的で独善極まった妄想ももう終わりだ。これがハッピーエンドだ。
そろそろ右手が古本街っぽい雰囲気を醸し出してくる。といってもまだ絵葉書とか筆とかが並んでる店があるだけだ。まだもうちょっと。凄え格好いい刀とかがラインナップされてる店の横に、古本屋が見えてくる。そのもうちょっと先にある芳賀書店の脇がもう神保町駅で、上手くやると九段下駅から視認出来るくらい近い。
駅の階段から立ち昇ってくる中学生はぶらぶらする腕と脚引き摺ってやっと歩いている。色々と折れているようだ。顔も痣だらけで、こうして昇り切ってもまたこの階段から転げ落ちるのだろう。そういう生き物なのだ。おれにはどうしようもない。彼女にもどうしようもない。無間地獄というものは案外身近にあるものだ。
「非道い人」
何かがおれの背後で囁く。
「いつも見えてるんでしょう、彼女のこと。それなのに、一度も助けてあげようともしなかった。あら、何?今日もまた逃げるのね」
おれが幾ら逃げたって、お前に責められる筋合いはない。おれにどうこう出来る問題ではないのだ。逃げるしかないではないか。だから、奴らには責める言葉がなかった。おれに罪悪感抱いてんだな。でもこんな時だけ団結力を見せて、じとじとした目で以て総員でおれを睨んだ。追うように。追うように。
おれは逃げたんだ。追われたわけじゃない。おれは。
おれがライター買ったのを奴らは知っていたのかな。情けをかけられていたのだとしたら、おれはもう道化と変わらんな。あいつらは、無意識の内に凄え譲歩したのかな。家族だから。薄っぺらい事実の為に。
灰燼となってしまったおれの部屋には好きな映画のポスターやら本やらがあって、でもおれの日常を彩ったそういうものは消えてしまえば枷でしかないことに気付く。またあれが欲しい。あれを買いたい。おれはまたあの部屋を再現しようとしている。果ては将来家庭を持って、あの家を再現しようと努めるかも知れない。ありそうで、やりそうで、口惜《くや》しかった。あれに愛情を抱いているだなんて思いたくない。でもおれが本当に求めているものはあれなのかも知れない。おれが憎んだあれの、在りし日の姿を、何よりも求めているのかも知れない。
でも美化しても美化しても綻びだらけの絵にしかならんね。こんなものが欲しいなんて、おれもどうかしてる。
これが家族なんだっておれは寸分も思わないけど、或いはホタルが綺麗なのと同じ理由かも知れん。暗い中じゃただ光るもんしか見えないから、幽玄な感じで舞うホタルは妙に心に来る。でも明るい空の下で光ってねえホタル見ても、ただの昆虫だ。おれは今相当暗い場所に居るんだな。
そろそろ右手には古本屋、左手には飯屋っていう並びが続き始めて、世界一の古本街っぽい景色を呈してきた。スーツ姿の爺さんが目に付く。それよりも超スレンダーで緩いティーシャツ着てベビーカー押す美人が目に付く。美人はおれを見て怪訝そうに表情を歪める。おれがイケメンでも同じ面するかよ。舌打ちに怒りを籠めた。前を行くお婆さんに困った顔で見られた。
取り敢えず全品百円の文庫本のラックをおっさんの隣で漁るが、何が欲しいわけでもなし。だがちょっと、ミステリーが欲しくなった。でもおれの目的はミステリーじゃない。劇的に人が死なない構成が施された世界の何か。確かにおれの眼前の世界に存在する何か。それが欲しくて欲しくて、ここに来たんだ。
おれは特異な人間じゃない。何処にでも在って記号で以て「おれ」と割り振られただけの生き物だ。それなら、先人の中にだっておれと同じ状況にあり同じことを考えている奴は幾らでも居る。おれはこの古本街に、同志を求めているのだろう。九段坂を下りくだり、おれはおれを導く死者に会いに来た。とことん叙情的に、感傷的に言うならおおよそそんな感じじゃねえか。
だが、どうもこじ付け臭い。きっと本当に目的なんかねえんだ。レポート書きたいっていうのはただの口実で、おれはただ歩きたいだけなんだろうな。生きていたいだけなんだろうな。
「読ませてもらったよ」
六尺五寸で体重三桁の入道が、おれの横について歩いている。だからさっきの美女に眉寄せられたんだな。お前の所為か。
「あんまり文章がつらつらと続くものだから、読みにくいね。もうちょっと台詞を入れた方がいい。君の独白だから仕方がないのかも知れないが、短編なのにストーリー展開もない。ただ意味のわからない表現を使って雰囲気を作ろうとしてる。自己満足の臭いがぷんぷんするよ。所詮は昇華行為だね。自慰と変わらないよ。こんなものを読まされる人間の身にもなってもらいたいね」
「別にいいだろうが。おれのことなんて」
「その意識がいけないんだ。君は人に理解されたい癖に、理解される努力をしていない。認められたいんだろう。ずっとそうだったんだ。あの弱々しい火は、君の最高の努力だったのか?」
「他にやりようがあったのかよ」
「なかったと思っているのか?」
「なかった」
入道はくぐもった笑いを発してにやにやおれを見下してきやがる。濃い髭面を真っ青に染めている。落ち窪んだ目は金色だった。何だか寒気がして背が震えた。こいつは他の連中とは違う。まじで妖怪なだけはある。おたくっぽいけど。
「やってしまったものはしょうがないけどね。君のお陰で、家族も団結したようだし、結果としてはよかったかも知れないね」
腑に落ちなかった。
「は?」
「君という敵を得て、団結したのさ。彼らは大事なものを沢山失ったからね。可愛い妹も、お宝の本を失くして泣いていたよ。そうして君がひとりで仇役を担うことで、彼らはまた、君の言う在りし日の姿を取り戻した。君は居ないけどね」
「馬鹿か」
「自然の成り行きだと思うがね」
「お前が馬鹿なんだよ。嘘吐くな」
「嘘じゃないよ。君も自覚があった筈だがね。君の家族は譲歩なんかしていない。君は家どころか、アパートにも学校にも帰れないよ。警察が張っているからね。放火犯を捕まえる為にね」
おれが他人の情報を鵜呑みにするほどの阿呆に見えるのか。節穴め。阿呆入道が。そんな出来事はおれの人生ではない。おれは特異な人間じゃない。そんな目に遭う筈がない。
「信じないのならいいよ。君の人生だしね。どうしようと君の勝手だ。君の信じる家族というものは、君の罪を暴いたりしないんだろう?それでいいよ」
青入道はマルボロブラックメンソールをふかして嗤う。都条例違反だ。爺の化け物には不似合いの鮮烈な黒のパッケージだった。本当は見た目よりも若えのかも知れない。おれにも一本薦めるが、煙草は飲まんので断る。
「今の君に火はまずいね。この街に火をつけたら、一瞬で総て灰にまってしまう。火は怖いね。燃やされたりしたら堪らない」
遊郭が凄え燃える映画が頭が過る。あれよりも燃えような。おれも巻き込まれて死ぬかも知れん。
「おれはここが好きだから」
「あの家も好きだっただろう」
「いや」
どう考えてもおれがあの家を愛していたとは思えない。今おれに在る思いは郷愁じみたもので、届かない過去に楽園を見出そうとしているだけだ。
おれを包み育んだ奴らに、家族という普遍の概念を見出そうとしているだけだ。
「君が何と言おうともね。君は彼ら自身を愛していたんだよ」
むかついてる筈なのに全身はきんきんに冷えて変な汗が落ちた。結露してんのか。融解が始まってんのか。
こいつはおれを虐めに来たんだな。青入道が本来何する妖怪なのか知らないが、元々山に住んでるような奴がこんな街中に下りて来ている時点で狂っている。おれを虐める妖怪に成り果てたとて不思議ではない。下らん生き物になったものだ。
「彼らも君を、愛していたんだ」
愛なんて薄ら寒い。信じられねえワードベストスリーには入る。それを恥ずかしげもなく、それどころか好んで使うこの阿呆入道は頭の芯までおめでたいものを詰め過ぎて底の方から腐っちまってるんだ。あれは傷み易いもんだから。
「だから君に裏切られたような気がしたんだね。君は公平で頼りになったから。結局、家中の精神的な支柱になっていたんだよ。それを君、あれは裏切りだ」
「おれはそんな出来た人間じゃない」
「それを皆、気付いちゃいなかったのさ。理解されないというのは辛いね。君が苦しんでいるだなんて、誰も知らなかった。君が口にしない所為でね」
「うるせえんだよ。人の家のことに口出すな、糞入道が」
きっと横を見れば、古本屋の窓ガラスにおれの青褪めた髭顔だけが映った。中の店主と目が合って気まずいので、ラックから本を物色する振りをする。
どうしてこんなに阿呆入道の言葉にむかついてんのか知らん。きっと図星なのだろう。おれも腹の何処か、或いはもっと表層の方であいつらを心から信頼していたんだ。だからこんなにむかつくのだ。おれがそういう感情を抱えていることを、あのブルーマンに見破られたのが悔しくてむかついてんだ。
感情がぶれまくりだから、手元の本もよく見えん。背表紙を眺めている内に、何だか知らんが手が震えてきた。今更何だ、とは思うが精神衛生上宜しくない事態が頻発し過ぎてんだ。手くらい震える。何しろあの阿呆入道の言うことが本当なら、おれの人生はもう見せ場なのだ。クライマックスだ。いい大人だって、全身がたがただ。
大学も中退するようになる。折角ゼミ受かったのにな。レポート書かなくてよくなったね。油彩画は当分お預けだね。糞が。何て人生だ。いいことなんてなかったよ。涙が出てきそうなのに口の周りが痙攣して笑みの形を作っている。こんな面でこんな場所に居られない。しかし帰る場所もない。誰も居ない。乾いた本ばかり。
おれは痺れそうな手をポケットに突っ込む。チャイルドレジスタンス機能がばっちりの糞固いライターに指が触れる。背表紙の文字が踊る。おれは。
おれは死ぬ。


アルターエゴ

家庭の。
ごたごたと試験期間が重なっていた。何もかも投げ出して、家庭菜園でも始めたくなってくる。課題を終えなくちゃならないのに材料もないから、九段下から神保町の方に向かって歩いていた。
「偶然」
この人はいつもここに居るから、偶然でも何でもない。
「変な顔しちゃって。どうしたのよ?」
人間、下半身がぶち切れてもこんなに陽気で居れるものだろうか。尊敬すべきなのだろうか。
いつもいつも、ここを通る時は妙な化け物を沢山見る。ここしか出ないから、幻覚というのも違う気がする。だからといって幽霊を見る才が今更芽生えたとも思いたくない。
動く寿老人の銅像、目が二枚貝の老婆、階段を落ち続ける少女。そのどれもがこちらの存在を意識し、干渉してこようとする。彼らに会うと、不思議と既視感のようなものを覚える。
嫌悪感かも知れなかった。
「多分、そうなんじゃねえのかな」
黒い、大きな影の塊が語り掛けてくる。頭の中を読み取られているようで、ぞっとした。
「怯々んなよ。食ったりしねえから。お前、何探しに来たの」
「何も、決めてはないです」
影は潜めた声で笑う。
「逃げてきたんじゃねえのか」
「え?」
「経験則だ。おれはそうだった。お前も、よく考えてみろよ」
嫌だ。この人と話していたくはない。
「嫌な筈ないだろう。お前も追われてきたんだろ。なあ、ちょっと歩きながら話さねえか」
影がのそりと立ち上がる。入道雲のように聳え立つ。黒い焦げがばりばり剥がれて、真っ青の皮膚が覗いた。
「まだ帰れねえだろう?」
髭面の妖怪はにやりと笑って、ポケットに突っ込んだそれを、確かに見たのだった。