地獄の回想録

2006年からやっているブログの記事を機械的に貼り付けました。

2015/06/24 12:53

環状線

 昔書いたやつです。


 足元を猫が走っていると思えば、それは揺れに合わせて転がるコーヒーの空き缶だった。長い夢を見ていた。どれくらい眠っていたのかと外の風景に目を遣るが、間抜けに口を開いた俺の顔が見えるばかりである。
 車内は閑散としていた。俺は車内に立ち込める熱気に当てられて眠りに落ちた筈なのに、起きてみれば酷く寒い。気の利きすぎた暖房のお陰で、己の汗の冷たさに身を震わせる羽目になった。その所為で眠気もすっかり失せてくれた。
 腕時計を見遣る。もう直ぐ家に着く頃だろうか。コートの襟を合わせて、溜め息をつく。汗も徐々に引いてきて、体はぽかぽかと温まり出す。ここは楽園だ。外はどれだけ寒いだろう。この数日は雪が降りそうな、鋭い冷気を感じるのが常だった。

 からからから、と空き缶が転がった。
 缶から視線を上げると、自然に女と目が合う。俺の真正面に、いつの間にか女がひとり座っていた。蜂蜜のような黄色の、ふんわりしたワンピースを着た、すらりと痩せた美人だった。女は口許に微かに笑みを浮かべて、じっと俺を睨んでいた。
 美人に見詰められるというのも悪い気はしないが、俺は間違っても一目惚れされるような顔をしていない。その悲しい自覚が、沸き立つ自惚れを抑え込む。俺を誘っているわけではない。では知り合いだろうか。いや、記憶にない。次第に薄気味悪くなってきて、目を閉じて席にもたれ掛かった。

 からからから、と空き缶が転がった。それはかつん、と俺の爪先にぶつかった。
「おお」
 目を開けると、先の女が目の前に立っている。つい声をあげてしまった。女はただ微笑を湛えていた。
 女の足首には、木で作ったビーズのアクセサリーが巻かれていた。切れると願いが叶うという、あれだと思う。何という名前だったか。
 しかしこの空きに空いた車内で、わざわざ俺の前に立つというのがあるか。しかも女の視線は、変わらず俺に向けられている。

「あの」
 出来るだけにこやかに、女に声をかけた。
「何か、ご用でしょうか」
「いいえ」
 女の声はいやに高く、少女のように拙いものだった。ワンピースから伸びる細長い四肢に、不釣り合いな響きがあった。
「そうですか」
 いいえと言われてしまえば、これ以上言うことはない。どうせ俺は直ぐ降りるのだ。気にしたら負けだ。

 女が同じ駅で降りて、俺の後ろを着いてくる想像をする。俺は女と面識もないのだから、殺される心配はなかろうが、わからない。俺にとっての些細なことが、とんでもなく重大なことであるかもしれない。不意に睨んでしまっただとか、肩と肩がぶつかっただとか、考えてみれば恨まれる原因なんて幾らでもあるのだった。
 特に電車の中なんて、酷い。そもそも俺が座ってゆっくりと眠りにつくことが出来たのは、他人への無関心という武器で以て人を傷付けたからに他ならないのだ。誰もがそうしている。恨まれて然るべき、なんて理由は俺には見付からない。

「もし」
 女の甲高い声が、虎落笛(もがりぶえ)のように聞こえた。
「もし」
「はい?」
「あなたは何故私の前に座っているのでしょうか」
「はあ。何故と聞かれても」
 逆に聞きたい。何故俺の前に立つか。
「俺は元からここに座ってましたから」
「いいえ、いいえ。そこに座るのは私の子でした。何故あなたがそこに居るのです。気味の悪いこと」
「いや」
 気味が悪いのはこちらだ。この時間、子供が乗るようなことは稀だ。間違っても、こいつの子供なぞここには居ない。

「勘違いなされてるんですよ」
「いや、そこに座るべきなのは、確かに彼の妻だったね」
 妻ときた。とうとうおかしい。
「何故君がそこに座っているんだ。そこは彼の、妻の席だ」
「いや、ですから」
「ですから、じゃねえよ。ざけんなし。俺のミサの席なんだよ。退けよ、爺」
 爺とは心外な。俺は君と、十くらいしか変わらない。年長者に対して、偉そうに。
「ここは俺の席だ。俺が座っていたんだ。うるさいよ、何なんだよ」

「いいえ、いいえ。あなたの席ではありません。私の玄孫の席です」
「違う」
「いや、私は見ていた。彼の妻の席だ」
「違う」
「ミサの席だっつってんだろ」
「違う」
 からからから、と空き缶が転がった。それは俺の足許を離れて、対面する座席に座る女の足許にあった。
「落とした」
 女はぽつりと言って、缶を拾い上げた。そしてそれを大事そうに掌で包んで、ゆっくりと目を閉じた。
 アナウンスもなしに扉が開く。空気が急激に冷える。見覚えのあるホームの端が見えた。
 俺は鞄を抱え、コートの襟を掻き合わせて、電車を降りた。


   ■


 からからから、と空き缶が転がった。
「そっちに行っちゃ駄目よ」
 空き缶に対して注意するやつがあるだろうか。何かと思えば、まだ三つくらいの少女が俺の足許に座り込んでいて、その母親が連れ返しに来たようだ。
「駄目よ」
 こんな時間に、こんな幼子が居るのか。新鮮な気分になる。
「すみません」
 母親は苦笑いで頭を下げる。俺はただ笑いかける。そうか、居るものだな。俺はてっきり、この時間の電車に乗るのは帰宅するサラリーマンと学生だけだと思っていた。
 居るものだな。

「落とした」
 俺の足許の少女が、ぽつりと言った。
「落とした、落とした」
 屈んで床を眺めるが、落ちているのは空き缶だけだ。
「何を?」
「赤ちゃん」
「は?」
「ミサ」
 母親が慌てて子供を抱き上げる。子供は嫌々ともがくが、結局は押さえ込まれて対面の席に座るのだった。子供はきょろきょろ俺の顔を見た。

 扉が開く。冷気が滑り込む。
「寒い。ママ、いっぱいホットケーキ。いっぱい」
 親子は何か語らいながら電車を降りた。その後ろ姿を見るともなしに見て、扉が閉まる。むわりとした嫌な熱気が、俺の身体を包む。いやに暑い。暖房の設定温度を間違えているに違いない。背中を汗が伝った。

 女はやはり俺の対面に座っていた。真っ白い無気味な顔に優しい微笑を貼り付けて、俺を見詰めていた。俺はその微笑を求めていたような、拒んでいたような、懐かしい感覚に襲われる。その目で、漸くぴんときた。
「嘘をついていると思ったのでしょう」
 外気と同じ、温度の低い声だった。
「嘘?」
「ほら、見ての通り」
 指先で蜂蜜色のワンピースの裾をつまみ、広げてみせる。ふんわりとしたそれは、女の身体の線を巧妙に隠している。
「夫の誕生日だったんです。だから、私の体調なんか気にしてもらいたくなかった。元々無神経な人でしたけど」

 鏡のような窓ガラスに、不良めいた男の横顔が、ゾートロープのように浮かぶ。それは女の背後で、女の後頭部に向けて、笑いかけていた。
 例のアクセサリーが巻かれた足許は少し厚みのあるサンダルで、女はそれを見て無防備に、困ったように眉を下げた。初めて、女の顔に表情が生まれた。
「無茶というか、無理をしたんです。大丈夫だと思った。予定日も先でしたし、まだ」
「どうして、あんな時間に」
「夫の仕事が終わる時間に合わせて、電車に乗ったんです。知りませんでした。あんなに混んでいるものですか。無理矢理人が詰め込まれて、出荷されていくみたいですね」

 無言の俺に気付いてか、女はくすりと笑い、
「嘘をついていると思ったのでしょう」
「ああ」
 あんな時間のあんな電車の中に、妊婦が居る筈がない。おまけに派手な格好をしている。ただ座りたいが為に妊婦の振りをしたせこい女だと、思うことにした。
「俺を恨んでいるのか」
「いいえ、恨んでなんか。あなたでなくても、こうなっていたでしょうから」
 そうかもしれない。ただ偶然、この女が俺の前に立っていただけ。ただ偶然、その電車が急停車しただけ。それが俺でなくとも、結果は変わらなかったかもしれない。俺でなくとも、この赤ん坊を殺したかもしれない。誰だって。
 俺は何を必死に無意味な正当化をしようとしているんだ。
「私はあなたと無関係な人間ですから。無関心も仕方ありません。私だって、私を殺し得たかもしれない」
 女はふと溜め息を洩らした。
「目の前に立っていたって、何処までも無関係なのですから」
「本当に俺を恨んでないのか」
「恨んでほしいんですか?」
 俺は答えられなかった。ただ口を結んで俯く。
「あなたを恨んではいません。何度も言いますが、偶然だったんですから」
「ならどうして、今、俺の前に現れた」

 女は小さく首を傾げて、閉じた口を薄く笑みの形にした。俺は何て野暮なことを聞いたのだろうか。細い腕が、足許の木のアクセサリーを撫でる。
「私はただ、元気な赤ちゃんが産みたかっただけです」
 それが切れるのは、果たしていつになるのだろうか。それは女にとって足枷なのか、心の支えなのか、俺にはわからない。
「まだ、若いじゃないか」
 俺は自覚をして、無責任なことを言った。
「また、作ればいいじゃないか」
「そうでしょうか」

 アナウンスもなしに、扉が開いた。驚いて振り返るが、俺の無表情と目が合うばかりだ。
「そうだ。だから早く降りなさい」
 ガラスの向こうの女に語りかける。
「でも、こんな格好じゃ外には出られないでしょう」
 ガラスの向こうの女が立ち上がる。ノースリーブの、暖色のワンピースが膨らむ。
「私はまだまだここに居ますよ」

 車らしき閃きに浮かび上がった景色で、漸く目当ての駅であることに気付く。悠長にしすぎた。急いで降りると、間一髪、背後で扉が閉まった。
 寒い。寒い。じっとりと、嫌な脂汗を全身に掻いている。刺すように寒い。ポケットに手を突っ込み、首をすくめて、人気のないホームを出る。

 白いワンボックスカーの窓が開き、
「お帰り」
 妻は悪戯を仕掛ける子供のような笑みを浮かべた。
「‥‥大丈夫なのか」
 対照的に陰鬱な調子になった俺を不思議がるように、首を傾げる。
「何が?」
「腹だよ。赤ん坊が居るじゃないか」
「珍しいね、心配してくれるなんて」
 寒いから早く乗ってよと急かされて、助手席の扉に手を掛ける。

 からからから、と空き缶が転がった。誰かが、或いは俺が捨てたそれを指先でつまみ上げて、ごみ箱に放り投げた。それは籠の縁を叩いて、煌々と光る自動販売機の前に落ちた。
「ちゃんと捨ててきなよ」
 不服ながらも、こそこそと缶を拾い上げ、きちんとごみ箱に捨てる。円を描く矢印の中心に、陳腐な文句が書かれている。リサイクルでごみのない街。ぐるぐるぐるぐる回り続けて、バターにでもなるつもりなのだろうか。あの女はきっと阿呆だ。あの暖かな世界でぐるぐる回っている内に、脳も身体もどろどろに溶けてしまったのだ。

 俺は妻を助手席に移し、家路を駆けた。半分くらい行ったところで、はらはらとみぞれ状の雪が降り出した。この程度の雪では電車も止まるまい。俺は十年前に死んだ見知らぬ女の為に、十年ぶりに、幾度目かの涙を流した。