地獄の回想録

2006年からやっているブログの記事を機械的に貼り付けました。

2013-01-22 12:24

『後回』

 奴の表面的な態度の、或いは深層に潜む悪漢めいた性質を見抜いてないではなかった。ドラッグの代用品の遣り過ぎでぶっ飛んでいた意識が戻ってくるまでの三日間、仏壇の菊が悉く茶色く染まるまでの三日間、まさかその三日で俺の努力がパーになろうとは。思ってもいなかっただけのこと。

 感じていたかも知れないけれど。

 母と父を失った俺たちは空気の中を漂う何かもやもやしたものをぱくぱく吸い込むみたいに息をして、呼吸がままならないから問題は後回しって面を誰からともなくして、三十年モノの一軒家を行く当てもなく彷徨っていた。弔問客を捌いて三十年の人生の中で一番多忙な三日間を終えた長兄は、カウチで眠り込んでいると思っていたら消滅していた。スーツを着て出ていったというから一週間待ったが、行き先は会社ではないらしかった。俺は兄を失った。

 次兄と俺は隠者のような生活をしていたから生活の為の所作が非常に胡乱で、妹に頼むことにした。それが我が家の総意だった。民主的!冷蔵庫が壊れて中身が腐り始めた。買い換える金はない。その日食うものはその日手に入れた方がずっと安い。腐ってもらって結構だ。俺には関係ないね。でも妹にとっては大事らしくて次兄の頬に後ろ回し蹴りを喰らわせて前歯を欠損させた。あんまりにも酷い顔だったので指を差して笑ってやると、次兄も照れたみたいににへにへしてその場は丸く収まった。

 三兄は脚の神経をまじでぶち切っていて動けないらしい。幼稚園のぐるぐる回る遊具に立ったらたったそれだけの行いの悪さで両脚の何かを断ったとかいう。それから車椅子生活だというが俺は顔を合わせるのも稀だった。一階から甲高い金属の軋む音が聞こえると、あああれが三兄かとぼんやり考えたりして、俺たちの接点はそれだけだった。俺の顔を見るなり三兄はぺこりと頭を下げて、にこりと笑った。漫画みたいな笑顔で。そして小さな声で悪いね、と言った。我が家の人間とはとても思えない。胃の痛くなるような思いがして三兄の部屋を出た。がちゃりと内側から鍵のかかった音がした。がちゃり。

 四兄は大学を二浪して存在証明《ガクセイショウ》を勝ち取った。今何年生なのか知らないが、まだ大学は奴を追い出さない。金を搾り取れるだけ取ろうという算段だ。四兄に残された存在意義は、それだけだ。

 五兄に関しては書くことがない。それは五兄が悪いわけでも何でもなくて、俺の生まれる前に五兄は死んだから。手記を沢山残していて、誰かの意向で捨てずにあるから可哀想に五兄の思考はだだ漏れ、漏れに漏れて、今や俺の手に渡っている。大学ノート六冊分に及ぶそれは二十二の頃から二十五歳迄の、日記とも呼べない代物だった。多分日記の方が面白い。一言でいえば陳腐で下らない。でも五兄が悪いわけでも何でもなくて、誰に見せることも意図していないのだから仕方ない。ノートの表紙にはただ使い始めの日付けだけが書かれている。自分の為の、手記だった。愛も恋も絶望も悪戯心も未練も何もない、死人の落書きだ。俺が居なくなったら再生紙に出されるだろう。そして五兄の存在は消える。それが摂理だ。

 さて、摂理なんて正解みたいな言葉が出たところで総ての答えを聞こうか。
「それは知ってる。四十二だよ」
「受け売りじゃ駄目だ。お前の答えだ。お前は何人目?」
「九男」
「じゃあ俺は何人目?」
「知らないよ」
「次男だよ。お前の弟だ」
 意味がわからないって顔をしやがる。会社に出ていたから綺麗に剃られていた髭もぼうぼうと伸びて、餓鬼っぽい表情が似合わない。苛々してヘッドバットを喰らわせるとまた歯が抜けた。よくよく歯の抜ける男だ。

「消えろよ」
 こいつらの所為で兄は消えた。安いスーツは近所のコンビニのゴミ箱に捨てられてた。象徴的だ!余りにシンボリックだから、そうか、こいつらはそれぞれ象徴の塊なのだと思った。その象徴さえ消してしまえばこいゆらは消える。消して消して、全部消したら兄は戻ってくる?
 それとも兄の肉体は空っぽになるのだろうか?
「お前の答えは何だ?九兄。四十二以外で頼むよ。いや、おい。あの本を読んだのか?俺の部屋を漁ったのか?ふざけんなよ。ふざけんな。あれは兄貴の本だったんだよ。やっと手に入ったんだ。お前なんかに触らせて堪るか。堪るか。堪るか。さあ、答えろ。答えは?お前は」
「ごめんね、お兄ちゃん、ごめんね」

 右腕がぶるりと震える。十も離れた大きな兄が俺は怖くて、
「もう本を取ったりしません」
 怖くて右腕に押し付けられる、
「熱いよ」
 押し付けられる煙草の八五〇度に怯えて泣いた。わんわん泣いた。ふざけんな。
「消えろよ」

      ◆

 冷蔵庫を新調した。一番上の兄が人格の中から消滅したらしいので、貯金と保険金だけで何とかやってきたが流石に辛い。と頭を抱えていたところにこの僥倖である。親が私たちに懸けていた保険は人格の死じゃ下りやしないが、こうなれば話は別だ。
「有難う、お兄ちゃん」
 小さい小さい冷蔵庫だけど、ふたりなら足りるだろう。

 

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