2008/01/18 22:16
『彼女』
「俺のデスクの中にね、生きた人間が居るんだよ」
先輩の守江さんが、キーボードを叩きながら言った。
「へえ。一体それはどんな?」
「女さ。美人の女だよ。肉感的でね、蠱惑的な表情をしてるんだ」
守江さんは独身で、ふらふらとした掴めない中年男性だ。
僕と守江さんは、明日の会議の資料作りに残されているのだった。
「いいじゃないですか。美人なんでしょ」
「美人だよ。しかし、いいもんじゃない。こんな狭い所にむちむちした肉体が詰まっていてご覧。気持ち悪いったらありゃしない」
守江さんは1度も笑わずに言った。
こんな狭い所とは、デスクの右端の1番下にあるファイルを入れる引き出しのことだ。
縦横に30センチ、奥行きは50センチ程だろうか。
別にむちむちしていなくても、こんな所に入っていたら気持ちが悪いと思う。というか、入れない。
「確かに気持ち悪い。彼女は何を食べて生きているんです?」
「食べるもんなんて、ない。彼女は排泄する機能を持ち合わせていないから、食ってなんからんないよ」
僕は黙った。モニターの光に映る青白い守江さんの横顔は、冗談を言っているようには見えなかった。
「彼女は何も求めないが、俺に何も教えちゃくれない。だから俺は彼女の名前も知らないし、彼女がどうしてあそこに入っているのかも知らない」
その引き出しを、守江さんにバレないようにそっと見詰める。
まさかここに人が入っているだなんて、誰も思わないだろう。
「彼女は何も言わずに俺を見ている。濡れた、甘い瞳でね。俺はどきりとするよ。その目に見詰められる度に」
――それは、惚れているんじゃないのか。
僕は守江さんが恐ろしくなってきた。
「守江さん・・・・疲れてるんじゃないですか?少し休んで下さいよ」
「ああ。それじゃあ、悪いが少し寝かせてもらうよ」
守江さんは隣の椅子を引きずってきて、ふたつを横に並べて横になる。
少しして、微かな寝息が立ち始めた。
僕はそっと、「彼女」の居る引き出しに手を掛けた。
ひやりとした感覚が背筋を震わせる。
こんな冷たい鉄の中に、人が居るものか。
遠くの方で心臓が鳴っている。
濡れた、甘い瞳。
守江さんを見詰める、その美しい目は。
そこには、青と緑の厚いファイルがぎっしりと詰まっていた。
人が入るスペースなんて、ない。
僕はくすりと笑って、直ぐに凍り付いた。
――それなら彼は、何を見ていたのだ。
「冗談だったんですよね」
僕は彼に問うた。
「冗談ですよね?守江さん」
守江さんは、静かな寝息を立て続けていた。