地獄の回想録

2006年からやっているブログの記事を機械的に貼り付けました。

2008/01/18 21:31

『向こうからの物音』

 

私はあの扉を開けたことがない。

古びたアパートは土地の割に安い賃金で、私は直ぐにここに決めた。
不動産屋は言いにくそうに言った。
「もう1度申し上げますが、こちらの部屋は」
「いわく付きなんでしょう。何度も聞きました。あなたも心配性ですね。大丈夫、私は
 幽霊やらの類なんて信じていません」

私は、あの部屋の扉を開けたことがない。

うだつの上がらない不動産屋は、下卑た笑いを浮かべる。
「しかし、前の入居者も前の前の入居者も」
「金縛りですか?ポルターガイストですか?馬鹿馬鹿しい。そういう話はテレビ局の
 プロデューサーにでも話して下さい。私は構わないと言ったんです」
不動産屋の態度が嫌で、私は強気になって押し切った。

しかし、私は、あの部屋の扉を開けたことがないのだ。

あの部屋の扉には、1枚の札が貼られている。
その手のものに詳しい友人に聞けば、通信販売などでも簡単に手に入る
オーダーメイドを売りにした商品らしい。
何だか小難しい名前を言っていたが、そんなものは覚えていない。
「気を付けた方がいいんじゃない?」
友人は何処か楽しそうに言った。
「そんなものが居るんならね。じゃああそこを開けてそいつが出たら、電話でもしてやる」

結局私は、1度もその扉を開けていない。

その部屋は3畳程の狭い部屋らしい。あの不動産屋の言うにはフローリング張りで
窓がなく、収納スペースなどもないという。
壁には、額が掛かっている。
ガーベラの絵だという。

私は発泡酒に口を付けながら、扉を見上げていた。
何が出る筈もない。大体通販で手に入るような札で出て来れなくなるというのだから、
怪しい。それ程弱い霊なのだろうか。
私は鼻で笑った。
なら私は、幽霊と同居しているのか。
私は声を上げて笑っていた。
むくりと立ち上がって台所へ向かい、冷蔵庫を開く。
「あら」
アルコールの類はなくなっていた。
仕方ない。諦めよう。
居間に戻ろうと振り向いた瞬間。


こつり。


音がした。
硬いものを叩いたような、高音でブレのないしっかりとした音。
―台所の向こう側は、あの部屋ではないか?
いや、違う。冷蔵庫を閉めた衝撃で何かが落ちたのだ。
私は少しでも驚いてしまった自分を笑いながら、居間に戻った。


こつり。


どきりとする。
先程と同じ音が、また聞こえた。


こつり。


まさか。
そんな筈がない。
雨音だ。降っていたじゃないか、一昨日。
でなければ結露だ。木の軋む音だ。

気づくと、私はあの部屋の扉の前に立っていた。


こつり。


何が出るというのだ。
私はドアノブを握った。

音が止んだ。

 

翌朝、何の予感を嗅ぎ付けたのか例の友人が部屋を訪れた。
「その後、あの人は?」
「そんな奴は居ない。俺は独り暮らしだよ」

私はあの扉を開けたことがない。

「何だ、つまらん」
「ああ、でも。昨日向こうからラップ音がした」
友人は嬉々として飛び上がった。
「開けたのか?」
「いや」

恐らく、私はあの扉を開けることはないと思う。
知ってしまった時点で、想像は結果となる。
あそこには何も居ない。あそこには何かが居る。
どちらにしろ、結果とは虚しいものなのだ。

「嫌な部屋を選んでしまった」

私は札を見詰めて小さく笑った。