地獄の回想録

2006年からやっているブログの記事を機械的に貼り付けました。

2007/01/07 11:30

『駄 名前と熱川バナナワニ園

 


駅前の街中だというのに、どうしてここはまるで場末のように、
静まり返っているのだろう。

 

一人飲み明かした私は、終電の無くなった町をひとり歩いていた。
独身というのはこういう時楽だが、やはり淋しいという気持ちは強くなる。


年も明け、景気がいいから飲む。
ひとりで飲むのも、嫌いじゃない。


下品なネオンが照る店を、避けながら歩く。
少し身を傾ければ淋しさも薄れるのだが、どうもああいう店の女性は苦手だ。
財布も、給料前で薄い。

 

そうして歩けば、自然とひっそりとした細道に出る。
のれんの下げられた居酒屋が左右に並ぶ路地を出ると、
ホームレスの老人が汚れた毛布を掴んで、必死に寝ていた。
この寒さで薄い毛布一枚では、凍死してしまうかもしれない。

そう思うといたたまれなくなって、マフラーをそっと首元にかけてみた。
これくらいで寒さが緩むとは思えないが、自己満足というやつだ。

 

冬の風が、ひりひりと痛い。

 

私はわけもなく、こんなところまで歩いてきたわけではない。ここには、
24時間営業のインターネットカフェがあるのだ。


さっきのネオン街からほど遠くない筈だが、
まるで違う世界のように閉ざされた雑居ビル。
看板には空白が目立ち、最上階には同じ風俗店が全室を締めている。

階段の途中で、酔い潰れた娼婦が服を乱れさせて眠っていた。
やっぱり凍死してしまいそうだが、同情の念は薄い。
どうせすぐに、誰か拾ってくれる。

三階まで上がると、ぼんやりとした明かりを従えた扉があった。

看板も出ていないが、ここだ。前に一度、使った。

 

冷たい扉を開けると、生暖かい風が吹き出してきた。
小さなカウンターで、ワニのような目を持った、坊主頭の若い男性店員が
伊豆の観光雑誌を読みながら、バナナシェーキを飲んでいた。

赤いTシャツに刺された名札には、熱川、とある。

 

「空いてます?」
「ええ」
熱川は、いかにも気が無さそうに即答した。

そしてようやく雑誌を閉じ、カウンターの引き出しから小さな箱を取り出した。

 

「名前は?」
およそ接客、しかも年上に対してとる態度ではない。

「川堀宏夫です。あの、2回目で」
「あーいいですいいですいいです」

何か私が悪いことでもしたようだ。酔っ払いに聴取をとる警察官のように感じる。
そっちの方が、似合う。

箱には、学校の図書室を思い出すような、小さな紙がぎっしりとつまっていた。
そういえば、前回会員登録のように、名前やらを書かされた。

骨っぽい指先で、「か」と書かれた付箋のついたカードを一枚いちまい探っていく。
覗いてみれば、貝田で始まって、川田で終わる。
つまり、私の名前はないということだ。

「川堀さんね。初めてで?」
カードを揃えてから、乱暴にしまった。
さっき私は、2度目と言った筈だが。

「いえ、12月の終わりにも」
古い友人の家で飲みあって、つい終電を逃し、宛てもなく街をさまよい、
ここに辿り着いた。

 

「うん?」
熱川は、小さな黒目を左に寄せ、舌を薄い唇に這わせた。海外のアニメの、
獲物を前にしたずるがしこいワニのようだ。

「なんですか」

呆れるように笑い、首を傾げた。
「酔っ払い?多いんですよ、この時期」

「酔ってた覚えは」
ない筈だが。

 

私の言葉に、小さく鼻で笑う。開いた鼻の穴も、やはりワニだ。

「名前も書かずに出ていっちゃった」

「書いた覚えはありますが」

 

確かだ。あの時、確かに―。


「名前を、間違ったとか?」

 


なにかが、私の頭に割り込んでくる。

 

 

―あれは、確かにあの時、俺は扉を閉めた。アパートの、それはやつの家で、
はてさて、何を仰ってらしたかね?

必死の形相で。

 

 

「貴方は、何か間違えているのでは?」

 

 

靴を、履き違えましたか?

いえ、確かにあれは私の靴です。あの靴で、ここまで来たんですから。

 

 

ワニの坊主頭が、きらりと光った。

 


俺の手の中で、ナイフがきらりと光った。

 

 

「どうしました?」
どうかしたんだよ。

 

「‥‥ひ」

 


×

「ひろ、お」

酔っていた。
遊びにきたのかと思えば、貸した金を返してほしいらしい。

口論の末、ナイフを持ち出し。よくあることさ?

ナイフは引き抜くと、栓が取れるように出血が激しくなる。
今時小学生でも知っている。相当動揺していたのだろう。

肋骨のすぐ下に刺さったナイフは容易には抜けなかった。
どうして、その間に冷静になれなかったのだろうか。

その為、私のシャツは赤く染まった。

風呂に、入らなきゃ。

×

玄関まで、這いずってきた友人。相当酔ってるな。

俺の靴を履く。

錆付いた郵便受けには、広尾竹文と、やつの名前があった。

扉を閉めながら、目を虚ろにする広尾に声をかける。

「風邪引くなよ」

「待て」

どこか不自然な呼吸。

やばいな、飲み過ぎか。

「あとは、嫁さんに介抱してもらえ」

扉を閉めると、背中にかぼそい声が触れた。

「待て、ひろお」

 

 

わからない。


俺はその後、ここに?

 

 

 

 

 

「川堀さん?」
私は―気を失ったのか。
熱川が、表情を曇らせて顔を覗き込んでいる。

 


本当に私は、あの日そう言って出てきたのか?
記憶が薄れている。何かが、変だ。

 


「熱川さん、頼みがあるんですが」

「なんですか」

 


何かが、思い出せない。
何かが、間違えている。

 

どうして私は、私にあんな回想をさせたのだ?

 


「広尾竹文が居るか、調べてほしいんです」

やつに関係したなにかがあることは、確かだろう。

 

 


×

ワニのような店員は、カナダの観光雑誌をめくりながら雑に挨拶を済ませる。
私は昇り始めた朝日に目を細め、薄暗い乾いた路地を去ろうとした。

 

「ちょっと、話し聞いていいかな」

太った、中年の制服警官が声をかけてきた。

「僕ですか」
「うん、君、名前と職業教えてくれる?」

 

 

 


「川堀。デパート勤務です」

 

「川堀‥‥なんだ?」

 

 


「川堀宏夫です」


×


広尾竹文の名前は、あった。

「俺は‥‥」

何か、間違えているのではないでしょうか。

扉を閉める、あいつの顔は―

 

 俺?

 

 

 

 

 

 

翌朝、私はニュースで友人の死を知る。

名前は、わからなかった。

ただ容疑者の名前は、聞き馴染んだ名前だったように思う。