地獄の回想録

2006年からやっているブログの記事を機械的に貼り付けました。

2006/09/14 21:47

『まるでそれは幻影のような』

 

日が傾いてきた頃、僕はゴールデンレトリーバーのロンを散歩に連れていく。
コンクリートが熱くないか手で確認して、いつものルートを歩いた。
帰り、夕日と川を背に受けて後数メートルで家、という時。

頭の上で、カラスが鳴いた気がした。
「かぁらぁす」
不意に頭を突いて出た歌だ。ロンは、呼ばれたと思ったのか振り向いた。
「いや、何でもない」
「音痴」
何を。前はアマチュアのバンドでボーカルをやっていたのだ、今でも
カラオケじゃ人気者だぞ。
きょろきょろと辺りを見渡す。誰も居ない。ロンと目が合った。

「誰だよ」
「私」
肩が跳ねた。
後ろは川、右はみかん畑―何処だ?
「挙動不審だ」
まただ。
見つからない。少女―
上から、投げ掛けられている。
有り得ない、とは感じながら、暮れゆく空を見た。
橙に、黒いシルエットが貼り付けられている。中学校で退屈に見た影絵の劇を
思い出した。

高い高い電柱の天辺に、細い影がなびいた。髪の毛。

ああ、少女だ。
電柱の上には、シルエットの少女が座ってこちらを見下ろしていた。
「あ、危ないだろ。降りてきなさい」
僕は、見上げて叫んだ。
少女はくすくすと意地悪そうに微笑んだ。
不思議な事だ。こんなに離れているのに直ぐ側に吐息を感じる。
ロンの息かも知れない。

「悪戯じゃないよ、お兄さん」
東京電力の人じゃないだろ?それ以外は悪戯か変な人だ」
「全部外れ。私はね、見てるんだ」
面食らった。変な子だ、あの子は。
落ちる、と心配すると、彼女の言葉を飲み込む事も難しくなっていた。
「親は」
「そんな慌てないでよ」
駄目だ。僕はこの位歳の子が苦手だ。
従妹がちょうどあの子程で、流行りの遊びも歌手も知らない僕をオヤジと罵った。
話が合わない。

「僕の家の前なんだ。転落事故なんて起こされたら気分が悪い」
冷たいだろうか。しかし弱く見られてはいけない。
「そんな間抜けな事しないって。お兄さんみたいに段差でこけて
 わんちゃんに助けられたりしない」
「‥‥いつの事だ?」
正直、思い当たる節が多過ぎる。ここの少し前の段差で良くつまづく。
そんな事、僕以外に知らない筈だ。いや、知っていて欲しくない。
そうか、あれは僕の見ている幻だ。きっとなんやかんやの複雑な想いと
精神状態が幻覚症状を・・・・

‥‥虚しくなってきた。
理由はどうあれ、あの子がそこに居る。それで良いじゃないか。
何を否定する所がある?きっとうちの近くに住んでいて、こけた所を見ていたんだよ。
そう言い聞かせた。
幻はない。中々見る事の出来る物じゃない。
なのに一度でもそう考えた自分が恥ずかしかったのだろう。
恥じる程の事でもないか。

「何でそうやって犬を引いて歩くの?」
「何でって‥‥散歩だよ。こうして犬を歩かせるんだよ」
「変なの」
君のが変だよ、という言葉は心の中だけで収めた。
ロンはつまらなそうに転がって、上目遣いに僕を見ている。
「暇そうな犬」
彼女は、すっくと立ち上がる。
「家に帰りたいんだろうな」
少し寂しげな表情を浮かべた。何故だろう。
「私と話すの嫌?」
「僕は全然良いけど、こいつは会話の内容が解らんだろうしなあ」
「そっか」

急にびゅう、と強い風が吹いた。
途端、彼女の姿は無くなっていた。
「落ちた?」
落ちてきたのは、黒い羽だけだった。

 

 


不意に電柱の上を見上げると、少女が立っていた。

「前向いて歩かないとこけるんだから」

影の様な少女は、僕に向かってくすりと笑った。