地獄の回想録

2006年からやっているブログの記事を機械的に貼り付けました。

2006/09/10 22:30

『蓮』


ぷかぷか ぷかぷか

波はない。
ただ、浮いているだけ。

ぷかぷか と。

風にそよぐ 緑の葉。

私は今まで、この植物が花を咲かせたところを見た事がない。
世間では有名な花なのだが、実際に見た事はないのだ。

名を、蓮という。

多年草なので、私は毎年この池でこの蓮を見る。

ぷかぷか ぷかり

そしていつものように、呑気に風に乗る。

相変わらずの一面の緑。

そして今年も、夏が来た。

 

 

「好きなんですか?」

「え?」

見ると、何メートルか先に女性が立っていた。

顔が見えない。いや、見えているのだが

どういう顔なのか解らないのだ。

私は暑さに弱いので、熱にやられたのだと思う。

ただ何となく、親しみやすそうな印象を受けた。

肩ほどに伸ばしたさらさらと風に乗る髪。
淡い水色のワンピースに、濃い緑のブラウス。
ほっそりとしていて、素朴な女性である。

「蓮、お好きなんですか?」

女性は言った。

「毎日見に来てくれますよね。何年前でしたか、
 初めて来てくれたのは」

「8年前です」

はっきりと覚えている。
8年前の夏、十の時。
祖父が亡くなったので私達一家
この田舎に越してきたのである。

その時の車から見た小さな公園の広い蓮池。
深い緑の葉に、幼い私は惹かれたのである。
それから毎日のように此処に通っている。

「そう、もうそんなに長くなるのね」

女性は上を向く。

何だか、私はその女性をずっと前に見たような気がした。
いや、勿論初対面である。ただ何となくそう思っただけだ。

「夏は来られませんよね。
 何処かに行っておられるのですか?」

「いえ、夏はちょっと苦手で、学校が終わるとすぐに家に帰っていて」

良く貧弱と馬鹿にされたものだ。私は笑いながら言った。

「あら、そうなんですか。今日はどうして?」

私は女性に興味を持った。
何故こんな事を聞くのだろう、と。

「卒業したんで、就職したら東京の方に出ちゃうんです。
 知り合いが良い値で雇ってくれるって言うんで」

その為、就職には困らない。

「もう此処には中々来れなくなるから、見納めじゃないけど来てみようと思って」

「じゃあもう、会えなくなっちゃうんですね」

女性は俯いて、悲しそうな顔をした―ように思う。

「すいません、失礼かもしれませんが―僕達、何処かでお会いしましたか?」

失礼だ。物凄く失礼だ。
言って、後悔した。

しかし女性は割かし明るめに答えてくれたので、私は安心した。

「8年前です。まだ貴方は子供でしたから覚えてないのも仕様がないですから―」

「8年前?」

私は、必死に記憶を手繰り寄せた。
恐らくこの女性も私と同じくらい―もしくは少し年上だろう。
じゃああの時はまだ子供だったはずだ。

「何処でお会いしましたっけ」

女性はふふ、と笑った。

「此処ですよ。この蓮池です」

この蓮池であった人といえば、老人、警官、子供くらいだ。
見覚えがない。
8年も前だから忘れているのかもしれない。

「そっか。もう会えないんだ―」

女性は寂しげに言った。

「見てください、あれ」

女性は指を指す。
見ると其処には建設途中の建物のようなものがあった。

「此処にごみの建設処理場を作るんです。町の人が必死に猛反対したんですけど―
 無駄で」

まあ町民の権力などそんなものだ。
しかし、この町に住んでいてそんな話を知らないとは。
私はどうも地域の交流に乏しいらしい。

「この、蓮池も今年の秋に埋め立てられちゃうんです。実は此処、国の土地でして」

「え?」

長く親しんだ場所だ。
無くなってしまうのは惜しい。

「だから―もう貴方に見てもらえるのは、今年で最後だから、見てほしいんです」

女性は私の腕を掴んで引いた。

私と女性は蓮池の前に立った。

「どうですか?」

女性は言う。

私は見とれた。

一面の緑の蓮の葉の上には、
いくつもの淡い桃色と白の花が咲いている。

この世の光景ではないように思えるほど、恍惚である。

「綺麗に咲いているでしょう」

私は女性を見た。

「―貴女は―」

女性の、顔が見えた。

白い肌、桃色に差した白紅粉、深い黒の瞳。

私は8年前、この女性に会った。

女性は、あの時も変わらぬ姿をしていた。

女性の存在を知ったのは、始めて此処に来た時に車内から覗いて知った。
蓮池の前にたたずむ女性―
思えば、蓮など見ていなかった。
彼女に―見惚れたのである。

その夏、私はもう一度彼女に会いに行った。
暑い日差しが照りつけて、蓮池に向かう途中で気絶しそうになった。
蓮池に着いた時にはもうふらふらだった。
其処に、女性は居た。

嗚呼、あの時この蓮達は

    咲いていたじゃないか。

「貴女は、あの時の―」

「ふふ、やっと思い出してくれたんですね」

女性は笑った。

「貴方が来てくれて、嬉しい」

夏にしか現れない女性、
夏は外出しない男。

私は何だか悲しくなって、女性を抱きしめた。
涙が溢れて来る。

「もう、会えないんですね」

腕の中で、女性は答える。

「ええ、すみません」

その言葉に私は理性を取り戻して、手をどけた。

「す、すみません。僕が―夏に来ていれば」

女性は駆け寄って、私の涙をハンカチでぬぐった。

「貴方の所為じゃありませんよ。貴方を愛してしまった―私が悪いんです」

私の背中の方には、蓮の花が咲き乱れている。

「お互い様ですよ」

私がそういうと、女性は私の直ぐ近くで笑った。

嗚呼、日差しが照りつけている。

夏が、私達の間に溝を作り上げた夏が

もう一度、私達を

 

私は額に銃撃を受けたように感じて、

ぐらり

蓮の海の中に、落ちていった。

冷たい水の中で、私の意識は薄れていった。

 

「また気絶しちゃって」

女性の声だ。

蓮池の中である。幻聴だろうか。

「8年前、覚えてます?」

8年前。
私は女性の姿を見つけて―

「気を、失って―」

女性は、ふふ、と笑った。

「じゃあ、またいつかお会いしましょう」

またいつか―いつになるだろうか。
もしかしたら永遠に―

「いつでも、会えますよ」


ぷかぷかと

女性の声が 水中で響く。

また私は―

8年前のように―

 

 

 

 

 

「こらっ、来なさい!」

五月蝿い犬の声で目が覚めた。

私は、公園のベンチで転寝をしてしまったようである。
もしくは、また気絶して助けられたのだ。
こうも暑いからそれもあるかもしれない。

今年の夏は、田舎に帰省をした。

実に3年振りである。
それはあの蓮池の残骸を見るのが悲しいからであり、逃げていたかったのだ。

あの蓮池のある公園は―大きな建物になっていた。

その脇には。
誰が作ったか、蓮の咲く小さな池があった。

「お久しぶりです」

「ああ―久しぶり」

女性はあの時と同じに笑っている。

「もう、池に落ちる事はなくなりましたね」

「随分と小さくなったからね」


8年間の小さな幻想。

 

 

 

「また寝ちゃったんだね」

女性はベンチに座る私の腕を引く。

「行こう」

冷たい手の感触は、焦燥感すら覚えさせられた。

また、時間が―無いんだね。