地獄の回想録

2006年からやっているブログの記事を機械的に貼り付けました。

2007/03/29 22:50

『適当ってこういう文章のことを言うのだ』


クイーンの推理小説を読みながら、耳に入ってくるのは家電量販店のテレビから
流れるクイーンの曲。

シュールだなあ、と思う。

 

「ちょいと、お兄さん」

足元の方で、声が掛かった。
怪しい橙色の燕尾服を着た、オールバックの男。
私より少し若いくらいか。

「何ですか」
「今のお給料に、ご満足されていますか?」

君子危うきに近寄らず。


「しています」

男は残念そうに眉を下げ、そうですか、とかしこまった調子のまま言った。

私が足早に立ち去ろうとすると、男が前に立ちふさがる。


「‥‥詐欺師の勧誘か何かですか?そういうことに関心はありませんので」

「勘違いなさらぬよう。わたくしは、そんなこすいやつじゃありませんよ」

大きな口の端をU字に曲げ、奇妙な笑みを浮かべる。

関わりたくない。

 

「いいアルバイト、紹介しますよ」

押し入れられるように、私は喫茶店に入った。
困惑と諦めが、脳内で渦を巻く。

「ささ、お座りください」
「はあ」

恭しく私の方の椅子を下げ、背中を叩いて促す。
その腰の低い態度は、嫌いじゃない。

 

「さて、釜戸様」

襟を直し、少し上目遣いを使う。媚のようだ。


「え、何で私の名前を?」

「こう言ってしまえばよく思われるはずがないのですが、リサーチ済み、でして」

態度の割に、大胆なことをやっている。


「今、個人の情報なんてものは、合法的であっても容易に手に入るものです。
 毎日あの道を、文庫本片手に帰宅する‥‥我々は、貴方に目を付けました」

「困ったものに目を付けられたものですね」

冗談混じりに言うと、男は嬉しそうに笑みを組み直す。

「申し遅れました。わたくし、株式会社ジェイダックス、宣伝部の出久米と申します」

内ポケットからアルミの名刺入れを取出し、頭を下げて渡す。

普通、名刺は座る前に渡すものなのだ。社員指導がなっていない。

「ジェイダックスさん、ですか」

大手の家電メーカーだ。
信用していいのか?名前を語っている可能性も強い。


「今回貴方様には、時間をお売り頂きたいのです」

「時間?」

「ええ、報酬はそれなりに」

「あの、時間とは」

「簡単に説明しましょう」


出久米は表情を変えずに、鞄から固く折り畳まれた紙を取り出し、
テーブルの上に広げる。
私には到底理解できそうもない、設計図のようなものだ。


「時間、とはすなわち、貴方様の記憶を持つ間。つまり貴方様が釜戸孝太郎で
 ある間です」

「ふうん」

「貴方様の時間といえば、まあ、人格といった方が宜しいでしょう」

「私の人格を、抜き出して買うと」


おかしな話だ。私は、決して得な性格じゃないし、いいやつでもない。

「ええ。人格をお売り頂ければ、それを顧客に買って頂く。利用価値は無限大です。
 凶悪犯を更正させたり、自信を持たせたり」

「でも、私の人格など」

「リサーチ済みです。貴方様は、極めて利己的な人間であり、しかし無軌道な行動が
 多い。つまり、チャレンジ志向の持ち主ですね」

何だかどうしようもない言い方だが、チャレンジャーと言われればそうなのかも知れない。
だから現に、渋りながらも私は熱心に話を聞いている。

私が頭の中で整理をしていると、突然出久米がテーブルを叩いて立ち上がった。
「どうしてもその一歩を踏み出せない控えめな方にっ!‥‥よく、売れるでしょうね」

「お、驚きましたよ。止めてください」

「失礼しました。さて、報酬の方ですが」

 

もうそんな所まで話が飛ぶのか。

「待ってくださいよ。まだ方法も何も聞いていませんよ」

「おおっと。そうでしたね。さて、装置の仕組みですが‥‥こちらから流れた‥‥」

やっと設計図の出番らしいが、理系科目で赤点ばかりとっていた私には、説明されても
わからない。


「と、まあ。仕組みは以上ですね」

「え、ええと。つまり私の意識を失わせた上で、CTスキャンみたいなこれで、
 人格を取り出すと」

「時間を取りだすのです」

「わからないですよ」

「つまり、頂いた時間の分、貴方の時間は失くなります。つまり、一時的な記憶喪失が
 起きるわけですね」

 

 


「あれ」

それから、どうしたんだっけ。

そうか、私に関しての記憶を失ったのか。

どうせ一日分だ。今日一日、だらだらと過ごしていればいい。

こんなに金が手に入るなら、一生分を売ってもいい。

私に関しての記憶を失うだけだ。

私は出久米に貰った私の家までの地図を見ながら、暗い帰路に着いていた。

鞄には、エラリー・クイーン推理小説が入っていた。
栞の挟まる場所を開き、続きを読み始める。

 

「孝ちゃん、遅かったね。お帰り」

この女性―爾志村香奈だ。

「あれ、部屋を間違えたかな」
「何冗談言ってるの。ここが孝ちゃんの部屋」

つまり、香奈は私の恋人なのかな。

「ただいま」

私は笑顔を作って、玄関を上がった。

私の首に巻き付いてきた香奈の腕にキスをする。

 

 


何だか、愛情も時間を失っても全然やっていけそうだ。


私って、何だったのかな。