地獄の回想録

2006年からやっているブログの記事を機械的に貼り付けました。

2011/12/22 15:13

『ゆふづつ』

 偏屈な奴と言う時の表情に近い。悪い夢の中で会ったような顔で、目ばかり細めて大口を開けて俺を見る。
 俺の疲れているのを知られたくなくて、血の足りないというか、息切れする家系のにんげんなので、早く死んでくれればいいと思う。
 ひゆうひょろろと息をして、水の途切れるような音があって、それでもまだ白目が白目らしい自負を持って輝いているので、余り宜しくない。
 俺は昔から白目が苦手で、白目を見ると刺し貫いて抜き出して白くないようにマッキーなんかで塗り潰して返してやろうかと思う。結婚しようと思っていたので、白目は白いまま美しい。
 元々白という色は眩しくて好きじゃない。だから白無垢もウエディングドレスもやめようと言ったら、本当に偏屈と言った。俺は素直にもの申したのに、偏屈とは心外だ。
 俺の家系は目が弱いです。曾祖父の遺影も祖父の遺影も母の俺を抱く写真も皆嫌な顔をしていて、俺の卒業写真もご多分にもれず嫌な顔をしている。
 この間いも農家の取材とかでテレビが来たから、嫌そうな顔を全国に大公開。俺の先祖はきっと後悔している。お天道さまに顔向けできるような行いをしておくんだったさ。
 黒でいいじゃないと言ったら、黒なんかないわと喚いた。いも農家の嫁になりたいと言うのだから、白じゃなくてもいいじゃない。
何だか知らんが、昔から考えていた計画があったらしくて、白いのがいいらしい。俺はいもが大事だから式も面倒臭い。
 息がやっぱり切れてきて、もう手も痺れてきた。ぶるぶるしているのが脳のど真ん中に響いていて、音叉の如し。デーのフラット。ドイツ語の読み方を俺はとうとう覚えられなかったけど、確かDesはデスです。デスの音が俺の全身を包み込む。
 デス。
 包み込むのデス。
 Diesだったような気もしてきた。こうなると読み方なんぞわかったものじゃない。英語のdieではないが、もしかしたらDiesもダイなのかも知れない。デスでもダイでもどちらでもいいのデス。ダイたいのことがわかればいいのです。
 絶対音感の持ち主なので昔ひとから音楽をやれと言われたが、俺の家に音楽を遣る奴もなくて、音楽の遣り方などわからない。
 その音がデスだとわかったって、俺がデスの音を美しく麗しく荘厳に明けの明星の啓明の如く奏でられる筈もない。確信が持てる。
「音楽遣る奴苦手だわ。俺はもう音楽は遣らない。
 音楽家は怖いよ。
 俺の音が違うと平気な顔で言う。
 俺の音の何が違うのよ。これが俺の音だよ。でもそんなこと言えねえからさ。
 もっと、伸びのある音を出せって言われたのよ。
 伸びって何だよ。
 ぷわあっとだって。
 ぷわあって何だよ。
 俺にはわからん」
 学生時代、音楽を途中下車した友人からそう聞いていたので、俺は音楽は遣らない。
 そう言うと非常に怒って、いつもそうよ。いつもそう。それが伸びよ。あなたには伸びがないのよ。あなたが音楽を始めればいいじゃない。家の何の関係があるのよ。
 じゃあ俺が音楽を志す為に、農業を放っても、いいんですね。
 そういう話じゃないわよ。
 顔が真っ赤になって、ぷわあっという音が起こった。何かが沸騰したのかと辺りを見回したら電車の警笛で、これが伸びのある音なのか知らんと思っていたらもう、もう空には宵の明星。いも農家の夜は早い。その分朝は早い。
 もう寝るよと言って嘘臭い布団に横になった。本当に偏屈という挨拶があって、その日は寝た。
 指先が青く濁ってきた。ひとの体ってこんなに青くなるものか知ら。爪の隙に詰まった土の色も気にならなくなるくらい青黒い。
 もっと赤くてもいいんじゃない。
 でも赤という色は好きじゃないらしい。それが流行らしいことも言った。結局いつものオレンジのようなピンクのような、塗ってんだか塗ってないんだかよくわからん色の口紅に高い金を出した。いも農家なんだからいいじゃない。
 もういいかな、と思って手を緩めると、どくんと血管が波打って心臓から血が湧き上がる。慌ててまた絞め上げるが、今のでどのくらい生き返ってしまったもんかい。
 俺の手はもう限界ですよ。テレビなんかじゃ、もう一分とかからずにことんといくのに、もう三時間くらい遣っていると思うのに、心臓は元気も元気。
 三時間はない。三時間も遣っていたら、俺はもう呼吸困難で面白いことになっている。たかが二分くらいでしょうさ。
 何時間遣っていればいいのか。俺の家に医者は居ないから医学の知識は俺にはない。
 死のうとしている者に手を差し伸べて、死なせようとしていたら生き返ってしまうんじゃ申し訳ない。もういいわよ。やめるわよ。結婚なんてやめるわよ。
 そうかやめるかいなと思っていたら、死んでやるわよという。死ぬのはよくないと思う。
 ひとが死ぬのも当然のことで、善いとか悪いとかそういうので分類出来るのじゃない。好もしいかそうでないかといったらそうでないので、止めましたよ。
 いや。死んでやる。死んでやるわよ、もう、だって、あなたと別れたら、私生きていけないもの。だったらいっそここで、死んでやるから。
 でも結婚は出来ないのでしょう。
 出来ないわ。だって、あなたのこと、いつもわからないもの。黒いドレスって、何よ。喪服じゃないのよ。嫌なのよ。馬鹿じゃないの。いつも。そういうの。生きてても楽しくなんかないんでしょ。何もかもが気に入らないんでしょ。あたしも嫌いなんでしょ。いや。もう嫌。殺して。いっそ殺して。
 俺が首に手をかけると、ほっと妙な声を出して反り返った。右脚と左脚を擦り付けあって、ぐねぐね細長く身悶えて俺を睨んで地獄の化鳥のような声をあげた。俺の手を掴んで、もしかしたらやっぱり結婚しようと言うつもりなのかも知れなかった。
 それからたかが二分とちょっとくらいしか経っていないだろうに。
 俺の息が段々深くなっていく。浅い呼吸をしているにんげんは大丈夫だと、祖父の臨終の席で叔父が言っていた。俺はもう死ぬ。
 伸びやかな呼吸。
 伸びやかなデス。
 耳鳴りが現実の世界に浸食してきて、こうやってひとは死ぬのだと思った。
 ふざけないでよね。何してくれてんのよ。殺せって言ったら殺すわけ。あんたのそういうところが嫌い。おんな心がわかってないっていうか。
 でもおんな心って何ですよ。具体的に何処のことを言うですよ。俺の体の中におとこ心はない。
 直ぐに屁理屈言う。そういうところが嫌いなのよ。
 こういうところも嫌いですか。もしかしてあなた、俺の何もかもが嫌いなんじゃないですか。
 知らないわよ。
 耳鳴りが止む。ひぐらしが俺のぐるりを埋め尽くしていて、ふいっふぃふぃふぃと美しい音色。かなかなかなというのは音が固すぎて、ひぐらしの鳴き声ではない。あれはハ行だ。俺は口笛で再現出来る。
 ふと空を見上げると宵の明星。ヴィーナスの星。いざ眠らんとて、こう、立ち上がろうとしますと、足が蔓に変わっていて動けない。
 やっぱり結婚しようという気らしい。それならそれで構わないから、俺はオレンジみたいなピンクみたいなのを口唇に押し当てた。固く冷たい。
 もしや本当に三時間、絞めていたのかも知れないと思った。それは偉いことだ。偉いといっても弩という接頭語の付く偉いではない。俺が偉いのだ。俺は血振り切った。曾祖父から受け継がれる血を振り切った。俺の前途は明るい。
 それならば、こんな場所に根を張って、結婚なぞして居られますか。飛び出して、電車に乗って、何処か遠いところで好きなことを遣りますよ。
 だが藻掻いても藻掻いても一歩も進まん。蔓は根深い。朝も早い。夜は長い。
 俺はぼろぼろ涙を流して、朝一番に通りかかる新聞配達のひとにでも頼もうと思う。もうどうにもならないから、俺を殺してくれ。白は嫌いだから、俺の方は帷子なんか着せないでくれと。
 俺のこと嫌いなんでしょう。今更結婚なんて、どういう料簡ですか。
 知らないわよ。耳鳴りがする。デスの音――ほっと妙な声を出して反り返った。
「なあ、どうしても農家じゃなきゃ、駄目ですか」
「駄目よ。農家と結婚するのが夢だったんだから」
「なあ、どうしても農家じゃなきゃ、駄目ですか」
「駄目よ。他に継ぐ子も居ないんだから」
「なあ、どうしても農家じゃなきゃ、駄目ですか」
「そうですよ。駄目なんですよ。うちは曾祖父から代々いも農家ですからさ。今更音楽を遣るなんかいって、ぷわあっの意味もわかっていない癖に」
「あなたにわかりますか」
「わかりますよ」
「何です」
「何のしがらみもない、腹から頭から宇宙へ飛び出すような音です」
「俺にそれが出せますか」
「知らないわよ」
 俺は掌に籠めた力を抜く。指先に血が流れ出す。握り締めたいもの皮がずるりと剥けて、白いのが露になっていた。
「何やってんの、あんた」
 冷やかな声が降り注ぐ。オレンジみたいなピンクみたいなのから発せられたにしては、冷たい寒色をしていた。
「いや、何も」
 エロ本を友人の目から隠したいような、ちらっと見せてみたいような感じで皮の剥けたいもを尻の下に隠す。
「何もしてないよ」
「何もしてないのがいけないんでしょ?本当に馬鹿。あんたのそういうところが嫌い」
 どういうところなのかわからん。
「ああ、もう、いや」
 何が嫌なのか知らん。
「なあ」
「何よ」
「俺、いも嫌いなんですよね」
 結婚して何年になるか知らんが、その間いつもいも料理ばかり出してきた。ぱさぱさぽそぽそして、変に甘く、腹に溜まるいも。オレンジみたいなピンクみたいなのは戦慄いて、俺の顔面をひっぱたいた。
「あんた、いも農家辞めちゃえばいいのよ!」
 今更言うですか。俺はにたりと笑って、それは無理だと言った。
「無理ですよ。だってあの時俺はここで死んだのだもの」
「意味わかんないわよ」
「わかるですよ」
 一等太い蔓を掴み、空に向かって勢いよく引きずり出す。圧し殺したような悲鳴が、ヘスの音で聞こえる。
 泥にまみれた二体の骨は、いも蔓に絡み付かれてもう動けん。ウエディングドレスも白のスーツも茶色く汚れて、陽の元にさらすと蔓なんだかドレスなんだか骨なんだかわからん。
「あの時、あなたは俺にここで死ねと言ったからね。農家と結婚するってさ。まあ、先は長いさ。末長く宜しく。でも俺は、いもが嫌いです」
 目が細まって、口ばかりが大きく開いて、仕舞いには泣き出したので、いじめすぎたか知らとしゅんとなった。
「偏屈」
「はい」
「あんたのそういうところが嫌い」
「はい」
 オレンジみたいなピンクみたいなのは、それ以上の言葉を持たないので、それで世界は終わる。だからうちに来た。生まれる子は貧血で、直ぐ息切れを起こすだろう。目が弱くて、眩しいのが苦手だろう。
 でももし、そのどちらかでも受け継がなかったら、俺はいも畑を潰してその子の未来の為に尽くそうと思う。それだけが今の希望。前途照らす明星。
 このひとが俺の唯一の希望というのも皮肉なことだ。
「あんた」
「はい」
「あたしのこと嫌いでしょう」
 このひとは自分がいもだと勘違いでもし始めたのか知ら。くっききと笑って、鉢の馬鹿広いかぶりを大きく振った。
「まさか」
 俺は今幸せだもの。君を嫌うなんてちょっと、もうちょっと違う感情だと思うが、だけど俺は骨だか蔓だかドレスだかわからないいもは大嫌いです。