地獄の回想録

2006年からやっているブログの記事を機械的に貼り付けました。

2018/02/27 12:57:47

『家庭用死者蘇生装置ゾンビナ~ル』

お題「右手が落ちてる」

 うっかり眼鏡を踏み割ったのとはわけが違う。それでも妻はあっけらかんとしていた。
「洗濯物運んでたんだから仕方ないって」
 妻は先端のない右腕で、ソファーに項垂れる僕の背中を軽く叩く。
「落とした私も悪かったし」
 薄っすら濁った目を眇めて、顎に手を当てる。生前と何ら変わらない仕草だった。

 妻は僕の目の前で死んだ。ずば抜けて賢い彼女は生まれつき身体が弱く、次に発作が起きれば助かる確率はほぼゼロだと医師に宣告されていた。
「君の死ぬ前に死ねるなら、いいかも知れない。出来れば一緒がよかったけどね」
 妻は生前、あろうことかにっこりと笑いながらそう言って、僕を怒らせた。
 終わりは大抵劇的ではない。腕を叩かれて目を覚まし、慌ててベッドから身体を起こすと、隣で眠る妻の呼吸は既に止まっていた。心臓マッサージと人工呼吸を、何度も何度も行う。後で話を聞くと、30分以上そうして居たらしい。
 インターホンが鳴るのが聞こえて、ふらつきながら玄関扉を開ける。そこには医者風の白衣を着た男が立っていた。
「お待たせ致しました」
「はあ」
「‥‥奥様がお亡くなりになられたのでは?」
「はい」
「では失礼致します」
 男はそう言って、ずかずかと寝室まで入ってきた。すっかり上りきった朝日に照らされる妻を見て、急に嗚咽がもれた。
「おい、やるぞ」
 白衣の男はぼくの背後に声を掛ける。すると無遠慮な男どもが数人進入してきて、妻を取り囲んだ。
「何をする気だ」
「奥様から何もお聞きでないので?」
「時間がありません。博士、早く」
 その作業もまた、僕の目の前で行われた。
 妻の腹が糸のようなメスで開かれ、中から黄色い脂肪の付いた腸が取り出される。男たちはそれを慣れた手付きで容器に入れ、次々に内臓を抜いていく。僕は次第に、これは夢だろうと思い始めた。夢から醒めようと考えている内に失神し、ソファーの上で目が覚めた。
「おはよう」
 妻が何かの冊子に目を通しながら言う。
「よかった。酷い夢を見たよ。君が死んで、変な男たちに解体される夢だ」
「聞いたよ、目の前で見たんだって?それは流石に倒れるって。仕方ない」
 その冊子には、『家庭用死者蘇生装置ゾンビナ~ル テスター用』の文字があった。

 妻は1年ぶりにその冊子を取り出して、あの日と同じように読む。
「右手3万円か。案外安いな」
「でも君の、その、生まれつきの手じゃなくなるんだろ」
「私の半分はとっくに生まれつきのものじゃない。今更気にしないよ」
「でも何で右手が落ちたんだ?メンテ不足?」
「まさか。君が毎日見てくれてるんだから、それはない」
 この1年間、彼女の身体に異常があったことはない。それでも僕は素人だから、自信があるわけでもなかった。
「やっぱり君の友達とかご両親とかにも、メンテナンス方法を教えておいた方がいいよ」
「またか」
 妻はその話をするたびに、眉間にシワを寄せる。彼女のことを考えればそれが1番なのに、何故かそこだけは意地でも聞かない。
 『ゾンビナ~ル』の契約を独断で行ったように、妻は僕を蔑ろにするところがある。確かに彼女よりも頭は悪いが、一応彼女の夫だというのに。
「毎日やってても今朝みたいに手が落ちたりするんだ。僕に何かがあったら、幾ら不死の君でもぼろぼろになるだろ」
「そうかも。何しろ私が世界で唯一のテスターだからね、不測の事態もありうる。メンテナンスを怠れば、死ぬ可能性だってある」
「なら尚更」
「大丈夫だって。悪いけどコーヒー淹れてくれない?右手がなくてさ」
 幾ら睨んでも聞かないのは知っているから、溜め息をついて立ち上がる。彼女が生前と変わったのは、苦手だったコーヒーが飲めるようになったことだけだ。
 それ以外は何も、変わっていない。
「もう落とさないでくれよ」
「わかったわかった」
 彼女はブラックコーヒーに口を付けて、にっこりと笑った。