地獄の回想録

2006年からやっているブログの記事を機械的に貼り付けました。

2019/03/06 18:51

『ふたりきりバベル』

 バベルの塔は神様が思っていた以上に木っ端微塵になった。俺たち人間はひとりにひとつ、違った言語を獲得して生きる苦悩を背負わされたのだ。
 親が子に言語をインプットする以前に、赤児の脳には個人語が組み込まれている。この個人語というのは俺が勝手につけた言葉で、俺だけが便利に使っている。
 親は教育の過程で、子の持つ個人語を理解しすり合わせていかなければならない。親にとっての「ママ」が「母親」を意味しても、子にとっては「早めに首を吊って死ね」の意味であることもあるのだ。
 俺たちの一生のほとんどはそうして、他人の言語を理解することに費やされる。人間の遺伝子は古来から、偉い人が何とか男と女をペアにしてセックスさせることで続いてきた。
 俺の両親は、家庭内でほとんど会話をしなかった。誤解を恐れていたのか何なのか今でもわからないが、どこの家庭でも似たようなものだろう。

 ――神保町は紙束の街だ。人々はここに黄ばんだ紙の匂いを嗅ぎに来る。彼女と出会ったのは、一層黄ばんだ紙束の店の中だった。
 俺は嬉しそうに紙束をめくる彼女の横顔に、妙にぐっときてしまった。声をかけねばと思っても、俺から出る言葉の意味を彼女は知らない。傷つける可能性だってある。
 それでもいても立ってもいられず、俺は紙束をひとつ手にとってぺらぺらとめくった。そしてその中から、俺が「犬」として認識しているものを見つけて彼女に見せた。
「これ、犬です。犬」
「****?」
 彼女は困ったように笑った。それがまた最高によくて、俺は何だかんだと喋りかけ続けた。
 彼女にとってのロバが犬だとわかるまで、1時間かかった。俺の名前を理解してもらうまで、1ヶ月かかった。結婚してくれないかと伝えるまで、3年もかかった。
 彼女は目に涙を浮かべ、うなずいて言う。
「早めに首を吊って死ね」
 一瞬で顔面を蒼白にさせた俺に、彼女は思い切り抱きついた。