地獄の回想録

2006年からやっているブログの記事を機械的に貼り付けました。

2018/11/23 12:37:13

『選んだ鞄』

お題「米」「天秤」

 第四次世界大戦が終わり、世界の人口は一割減って居住可能地域は半分になった。
 日本も例外ではない。俺は瓦礫となった家から鞄と布団だけを引っ張り出し、段ボールで雨風をしのぐ生活をしていた。ここにいれば、一年ももたないかもしれない。そう思いながらも、俺には行く宛がなかった。
 居住不可能地域には、俺の他にも住人たちがいた。彼らは商店街に屋台を出し、食料やら生活必需品やらを売っていた。
 売ると言っても、政府は機能していないから金銭のやり取りではなく物々交換だ。俺の布団はサバ缶十個になった。鞄に入っていたノートや筆記用具の類は全然売れなくて、段ボールの上にただ横たわる日々が続いた。
 死の恐怖はない。このまま飢えて、頭が働かなくなり死んでいくのだと思うと、そこまで悪いことではないと思った。

 最後のサバ缶を食べきり、商店街に筆記用具と鞄を並べてうつらうつらとしていた時だった。そばに人の気配を感じて目を向けると、そこには見知らぬ男が立っていた。男は表紙に名前の書かれたノートをしげしげと見ている。
「これをくれますか」
「何と交換」
 かすれた声で、やっとそれだけ言う。
「このペンもセットで。これと」
 男はコートのポケットから、ビニール袋を出した。中には、白い米粒が入っている。三合ほどだろうか。
「いいよ」
「ありがとう。ちなみに他にはない?」
「その鞄とか」
「じゃあそれも。追加でこれ」
 更にもう一袋、米が追加された。
「こんなにいいの」
「いいですよ」
 どう考えても、この米の量に見合うものではない。俺は何か騙されているのだろうか。
「また何かあったら、持ってきてください」
 あったらと答える俺に男は嬉しそうに笑い、鞄に筆記用具を入れた。
 米を分け与える条件で飯盒を借り、俺は瓦礫の中で一人久しぶりの白米の味に泣いた。ずっと考える余裕のなかった家族のことを思って、その日は寝た。

 翌朝、俺は家のあった場所から四角い木の箱を掘り当てた。持ち手がついた、木の鞄だ。
 それだけを持って商店街に戻ると、男はまた現れた。
「本当に持ってきてくれたんですね」
「あったから」
 男は中を見て、じゃあこれをと米を三袋渡した。
「そんなに価値が?」
「僕にはある」
「この米はどこから?」
「実家から送られてきた。美味しかったでしょう?」
 わけがわからないが、俺は生き長らえたらしい。しかしあいつは貴重な食料とガラクタを交換して、自殺願望でもあるのだろうか。そんな疑問も湧いたが、米が食えればそれでいい。

 次の日も、俺は瓦礫を漁った。ろくなものは見つからず、紙束が数十枚出てきたくらいだ。
 だが男はそれを見て、今までにないくらいの食いつきを見せた。
「信じられない!どうしよう、どれだけ払えばいいですか?」
「待ってくれよ。俺はその紙束の価値がわからないんだ。だからいくらになるのか、まるでわからない」
 じゃあ、と男は俺が譲った鞄を渡してくる。中は小分けにされた米や水などの食料でぱんぱんになっていた。
「僕が今持っている全部の食料です」
 欲望と理性を天秤にかけたら、案外軽々理性が勝った。
「貰えるわけないだろ。たかが紙束の」
「たかが?」
 男は、初めて不機嫌そうな表情を見せた。そして俺の手に、鞄を押し付ける。
「こんな状況だから、それどころではないから、腹が減っているから。そう思ってました。でもあなたはもしかして、最初から興味がなかった?」
「興味なんか持つはずないだろ。どうでもいいんだよ」
「先生が可哀想だ」
 それだけ言い残し、男は鞄を残して去っていった。それから男が姿を見せることはなかった。

 当面の食糧問題を解決し、欲の出た俺は米を払って布団を買い戻した。せんべい布団でもないよりはマシだ。
 男のことは気がかりだったが、名前も知らなければ探しようもない。一週間が経ち、二週間が経った。物々交換が軌道に乗り始め、飯盒の持ち主が死んで俺のものになった。
 人の生き死ににも、自分の生死にも興味が持てない。俺はただ毎日、ぼんやりと生きていたる。
 ふらりと家に戻ったのに理由はない。あの男がいない以上、この家にあるものに価値はない。
 瓦礫の中に、カラフルな棒が突き立てられていた。前はなかったと思いながら引き抜いて、木の枝が変な色に塗りつぶされているのだと気づく。再び瓦礫に挿し、周囲を散策する。
 あんな大戦がなければ、この家は俺のものになっていたのに。大きな瓦礫をどけると、潰れた額縁が出てきた。
 これにはどれほどの価値があったのだろう。俺は亡父の作品に、一切興味がなかった。少しでも高く売れれば、売る先など問題ではない。
 すべては、生きるためなのだ。

 手ぶらで商店街に戻った俺に、住人の一人が声をかけてきた。
「隣町に、立派な絵を描くやつがいるらしいよ。何でも崩れた壁をキャンバスにしてるらしい。行ってみないか?」
 あの男に渡した木の鞄を思い出す。俺が触ると、悪戯をするなと怒鳴られた。ただの絵の具が入っているだけの鞄なのに。
 あいつに渡して漸く、絵に命をかけて勝手に死んだ亡父を許せた気がしていたのに。
「いいよ」
 行きたくも、見たくもなかった。
「どうせそいつは、すぐに死ぬんだ」
 食料の詰まった鞄を引き寄せる。俺にとっては、この鞄のほうがあれよりもずっと重たい。俺は彼らを愚かだと思う。
「でも幸せなんだろうよ」
 俺の手にはないものを持っているのかもしれないけれど。俺は昨日手に入れたばかりの酒で、口を濡らした。